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 斎藤史自選歌集『遠景』は1972年刊行なので、収載年譜の記述は1971年で終わっている。

 さて、この年譜にあって、その後に編まれた史の年譜には無い記事がある。末尾の1971年の項である。

昭和46年(一九七一)現在家族。夫堯夫。母キク(失明)。長女章子。……


 このように家族を紹介するのだが、夫や長女の場合は名を記すだけなのに、母についてのみわざわざ「失明」と付け足すところが一種異様だ。母の看護・介護がたいへんな負担であったことは察するに余りある。しかし、この「失明」の二字には、一般的な意味でのたいへんさを突き抜けた特殊な情念を感じる。

 それがあったからこそ、次のような強い印象を残す歌が生まれたのかもしれない。

ぬばたまの黒羽蜻蛉(くろはあきつ)は水の上母に見えねば告ぐることなし
  (『風に燃す』1967年)

埴輪の目ふたつ穴なしてわらへども母の見えざる眼は笑はざり
  (『ひたくれなゐ』1976年)



(2016.7.1 記)

 今までうっかりしていたが、斎藤史の年譜では自選歌集『遠景』(短歌新聞社、1972年)所収のものが一番古いようだ。著者表示はないが、史本人が記したものだろう。のちの『斎藤史全歌集』(大和書房、1977年)、『原型』斎藤史追悼号(2003年3月)の年譜も、明らかに『遠景』の年譜を基礎資料にしている。

 1927年に『心の花』誌上に作品掲載、といった情報は後年になって佐佐木幸綱が誤りを指摘した(「『魚歌』に到る二年」、『現代短歌雁』1990年7月)が、元をたどれば『遠景』の年譜の記載事項だったのである。


(2016.6.28 記)

 斎藤史「歌集『シネマ』」は、石川信雄『シネマ』について

 さてその歌については何も云ふ必要もなかつた。全く、どの頁を開いても、覚えのある知つた作品ばかりだつたから。といふのは、石川氏がそれを発表された時、私がいかに懸命にそれを読んだかと云ふ事でもあり、又彼の歌が、どんなに独自の美しさで私をとらへたか、といふことでもあつた。


と述べ、

ギイヨオム・アポリネエルは空色の士官さん達を空の上に見き


などを引いた上で、

 人の作品ながら、これはもうその頃の私にはいつも髪にさす花のかんざしのやうに身近いものに思はれた。


と讃えた。「空色の士官さん達」の歌の初出(『短歌作品』1932年1月)の時から史はそれに魅了されていたということだ。事実、そうであったからこそ、史はすぐ後に

春はまことにはればれしくて四ツ辻のお巡査(まわり)さんも笛をひびかす(1)

  『短歌作品』1932年3月号初出。『魚歌』(1940年)所収。


の一首で、さん付けの「お巡査さん」という話し言葉も使用できたのだろう。ちなみに、『魚歌』に、

びらびらの花簪のわが母にずつと前の春まちで出逢ひき(2)


という歌があるが、第三句「わが母に」は初出(『短歌作品』1932年3月)では「母さんに」だった。ここにも同様の影響関係を認めることができるかもしれない。


 (1)ルビ「まわり」の仮名遣いは原本のまま。
  (2)「簪」は、原本では竹冠の無い字。


(2016.3.27 記)
 ギイヨオム・アポリネエルは空色の士官さん達を空の上に見き

   石川信雄『シネマ』(1936年)



 私の愛唱する歌だが、では一体何がおもしろいのか。説明しようとすると、なかなか難しい。上句は、詩人の名をそのまま口にしただけだ。空色の士官が空の上にいるというのも、言ってみれば、アポリネールの詩の趣向を引き写したに過ぎない。

 私はこの歌の無意味さを愛しているのだと思う。ギイヨオム……という音の響きそのもの。原詩の文脈を削ぎ落として、青空に何もないようなイメージ(空に空色というのだから、何も見えないような……)だけを採ったところ。

 もっとも、その無意味さを徹底させた先に、もう一つ何かがあるという気もする。斎藤史「歌集『シネマ』」(『日本歌人』1937年9月)は、この歌などを引きつつ、

 若くてもかるがるしくはない、透明でも単一では決してない、優しくても弱々しくない品性……


と評した。このような印象が生まれてくるのは、なぜだろう。

 石川の書棚にあったと想像される堀口大学訳『アポリネエル詩抄』(第一書房、1927年)と掲出歌とをあらためて比較してみると、一箇所、石川が出典の表現をみずからの表現に言い換えたと見られるところがある。

青空いろの士官どの
クリスマスから日がたてば
やがてやさしい春が来て
お前に美事なお日さまの
勲章をさへあげるだらう


  (同上書「白雪」より)


 堀口大学の訳詩では「士官どの」。それが、石川の歌では「士官さん」となっているのだ。訳詩の士官は天上でもなお威厳を保ち、「お日さま」の勲章で飾られる。一方、石川の歌の「士官さん」は、さん付けであることにより、メルヘンの世界の優しき住人に変身している。

 この歌の心が若々しく、かつ自由であることに私は引かれる。


(2016.3.21 記)


 昨年の葛原妙子賞の受賞者は、元『原型』会員の百々登美子。その授賞式でのスピーチの模様を、佐佐木幸綱のブログが報告していた。

 この日の百々さんのスピーチは出色だった。
 斎藤史の弟子である百々さん。彼女の話は、斎藤史と百々さんとの関係、斎藤史と葛原妙子との関係、そして百々さんが葛原妙子賞を受賞したことを斎藤史がどう思っているだろうか、という話。

(『ほろ酔い日記』2014年6月4日、
  http://blog.goo.ne.jp/yukitsuna/e/7a9a1f3fd575712e1f76cf4b80972c23


 「斎藤史と葛原妙子との関係」について、百々がどのように語ったのか。詳しい内容は分からない。しかし、もしそれが二人の親密な交流を紹介するような話であったとしたら、私はむしろ驚く。


(2015.5.4 記)

 肝心の作品に対する批判的見解も、史の胸のうちにはあったらしい。雨宮雅子『斎藤史論』付載の談話で、史は次のようにも述べていた。

 ……葛原妙子さんの歌が、あるとき日本語の曲線をへし折っているのね。それはそれでおもしろさを出しているのはわかるの。でも感覚としておもしろいと思いながら、ことばとして無理があると思った。葛原さんがどんな基礎をもっていらっしゃるか、わたくしはそれ以上はいえないけれども、わたくしたちが使うのは日本語だから、しかも、それはことばそのものではなく短歌なのだから、曲線のへし折り方にも、折りあいがあっていいと感じたことがありましたね。(178-179頁)


 こちらは人格批判でなく、作品批判だから、はばかることなくその名を明示している。「日本語の曲線」とか、それを「へし折っている」とかは独特の言い回しだが、何を言おうとしているのか、解釈の余地がある。同じ談話で、

 日本語のリズムには外国語の韻律ともちがう内在的な音楽があるし、余韻がある、ということね。(略)だから、意味だけのことばでつづった歌とか、ことばをポキポキ折り散らしたような歌など、わたくし、どうしてもたのしめないのね。といって古典一点張りでは、とてもすみませんから、わたくしも時にへし折るようなことはやるけれども、そのなかで大切なのは、ことばの美しさということじゃないかしら。(177-178頁)

 
といったふうにも語っている。史自身の作品を理解する上でも、示唆を与えてくれるところだろう。ともかく、その「美しさ」がない、ということを史は否定的に捉えているのだ。

 作品に対するこの本質的な違和感に、作者の人となり、歌壇内評価の高さへの違和感が入り交じって、対談を拒否するような感情が生まれたものと思われる。

 なお当然ながら、その人となりとは、つまり史の目にはそう映り、史の耳にはそう聞こえてきたということだ。


(2015.5.2 記)

 次は、角川『短歌』の編集長であった冨士田元彦の証言。

 それは昭和四十六年のことである。アンソロジー『現代短歌72』の編集にあたって、史さんと葛原妙子さんに対談していただきたいという企画を企てた。たぶん史さんには承けていただけるだろうという気持ちからまず葛原さんにお願いしようということで、うかがったところ、夏には軽井沢に行っているので史さんのご都合のよろしい時にお訪ねすることではどうでしょう、という返事だった。その上で史さんにこの話を持っていったのだが、にべもなく断わられてしまった。もっとお若い方となさったら、というのが史さんの返事だった……
 (「「原型」創刊の頃二、三」、『原型』2003年4月号)


 「もっとお若い方と」というのは体のいい断り方で、要するにその人とは対談したくないというのだ。なぜそんなことになってしまったのか。冨士田は続けて、

 その年はちょうど葛原さんが迢空賞を受賞された年であった。史さんは順序から言うと遅れをとって受賞されたのは、六年後になる。


と書いていて、その辺りに史が対談を嫌がる理由があったと見ているようだ。

 前に引いた史の講話に、「賞もお取りになって、先輩面」する歌人の話が出ていた。ほかでもない、1971年の迢空賞の発表後に史を憤慨させる出来事があったものか。


(2015.4.30 記)

 河野裕子は『密閉部落』(1959年)の一首、

標本瓶のこの脳髄も考へしや永遠といふやうな漠たることを


を取り上げて「長らく私は葛原妙子の歌とばかり思っていた」と書き、さらに、

 葛原の方が、美意識の先鋭化において、より顕著であるけれども、彼女の持つ、ふと人生を空虚に見てしまう視座の遠近法は、史に多くの影響を与えただろう。


と述べている(『斎藤史』鑑賞・現代短歌三、本阿弥書店、1997.10、77-78頁)。これが史の誇りをいたく傷つけたらしい。おそらく河野の著作が出版された直後のことだろう。カルチャーセンターの講義で、史は次のように語ったという。

 初め会った時には腰低く後輩として挨拶をして、次に有名になってから会うと、向うの方が賞もお取りになって、先輩面。さすがに気が咎めるから「わたしのほうが年上でね」って必ず言う。私は、一地方歌人には、一年に歌を注文してくる数だって滅多にありやしません。あちらは毎月のようにご注文があるから出来るはじから出していく。向うの方が先輩に見えますよ。私はそれを見て真似して書いたようになる。そう思ってます、今度出した河野さんの『斎藤史論』もそう。(「斎藤史講話」36、『原型』2009年4月)


 これまでに引いた史の発言と同じような内容で、先輩・後輩の関係や中央・地方の格差を強く意識するさまが目に付く。史が常に同時代の歌風に敏感だったのは確かだろうから、河野の指摘にも一旦は耳を傾ける価値があるはずだが、史本人はそれを断固として拒絶する。

 森岡貞香さんもわりに古いんです。ところが今の人は葛原妙子の方が先輩だと思っている。(同上)


 1930年代前半、二十代の史と十代の森岡貞香はともに『心の花』に出詠していた。だから、史は森岡に親近感を持っている。厭う相手は同じころ、まだ結社に属して定期的に歌を発表するということをしていない。そこで引用文のような言い方になる。

 ただ、何といっても、森岡は『葛原妙子全歌集』(短歌新聞社、1987年)の編者である。その森岡をやや強引に自分の側に引き込んでまで、尊大な後輩を落としたかった、ということか。


(2015.4.27 記)

 近藤芳美が記した文章のなかに、その言葉と、それを言ったという歌人の名が出てくる。

 戦後間もないころ、葛原妙子と云う無名の潮音の歌人が、「私は有名になりたい」と、叫ぶように訴えていた、と、ひどく感心した風に一人の編集者が来て私に告げたことがあつた。詩人でもあつたその年若い編集者は、新らしい短歌と、それをになうにふさわしい激しい個性とを待ちうけていたのであろうし、その無名の女性の思いつめた言葉に、きつと一種の爽快さを聞きとつたに相違ない。(「葛原妙子」、『短歌』6巻13号、1959年12月)


 「有名になりたい」という言葉にひどく感心した年若い詩人とは、中井英夫のことだろう。「私にとつてなつかしい、年長の女性の友人である。」と文章を結ぶ近藤もまた、聞きようによっては軽薄にも聞こえるその言葉にむしろ好意を寄せている。

 詩人が近藤にその者の名を告げたころ、『橙黄』と題された歌集が出版された。それを読んだ近藤は、著者に手紙を出した。

 あなたはこの次には嫉妬され憎悪されますよ


といった意味のことを書いた、という。近藤や中井のような支持者ばかりではないということだろう。実際、近藤が予想したとおりであったようだ。その者よりも年下ながら歌壇では先輩格の斎藤史が、やがてその者に冷ややかな目を向けるようになったわけである。


(2015.4.22 記)

 もう一つ、別のインタビューでの史の発言(インタビュアー、水原紫苑。「この人に聞く」第6回、『歌壇』1995年9月。)。

 生活は基本ですから。生活抜きで人間、飲まず食わずで鉛筆を持っているわけにはいかない。でも、そう強い人もありますよ。(略)亭主にパンツまで洗濯させて、自分は歌をやっていて「あなた、うるそうございます」と言ったのも知っている。地方にいると、逆訴えがあるの。私が探っているんじゃないのに、耳に入ってくるさまざまがある。「有名になりたい」っていうその執着にも感心する。それほど短歌に打ち込めるってことは見事じゃない。私はそう思って見ていますよ。


 「亭主にパンツまで洗濯させて」おいて、「あなた、うるそうございます」と言い放ったという。なかなかおもしろいエピソードで、それを紹介すること自体、悪口といってよいだろう。

 家庭生活を省みずに歌に執着する女性歌人への違和感。あるいは羨望。前の記事に引いた談話と、話の筋が似ている。同じ歌人について語ったものと思われる。史は、その人物の名は明かさない。

 しかし、こちらの発言には、一つ大きなヒントがある。「有名になりたい」という言葉だ。私の知るかぎり、史と同世代の女性歌人で、こういうことを言ったと伝えられているのはただ一人。


(2015.4.20 記)

 雨宮雅子『斎藤史論』(雁書館、1987年)に史本人の談話が付載されていて、そのなかに同時代の女性歌人について語った一節がある。聞き捨てならない内容で、興味深い。

 お年はわたくしより上だけれど、歌壇に出たてのころはひじょうにへりくだっていたのが、その後評判が出て、お会いしてもむこうが見くだすような態度になってしまった方。その方が、お家をほっぽって歌ひと筋だったので、歌をとったら悪妻しか残らないじゃないかといわれたとか。——でも、そうまでしてご自分を貫こうと一生懸命だったのだから、歌に賭ける執念でいえば、別の意味ではこれもご立派だと思うの。


 「歌に賭ける執念」を讃えたいのであれば、「見くだすような態度」「悪妻」などと言わなければよいと思うのだが、それを言わずにいられないということは、やはりその歌人のことをこころよく思っていなかったのだろう。

 「お年はわたくしより上だけれど、歌壇に出たてのころは」と言い、「その後評判が出て」と言い、「お家をほっぽって歌ひと筋」と言う。ここに、自分より歌歴が短いのに自分より高い評価を受ける者への嫉妬心を私は読み取る。

 さて、史がそこまで意識していた相手は誰だろう。


(2015.4.16 記)

 木俣修と石川信雄は学生時代、北原白秋が顧問を務めていた結社『香蘭』に属し、モダニズムの洗礼を受けた新鋭同士として親しく交流した。下宿先が近かった時期などは毎日のように行き来していたという。

 その後、二人は袂をわかつことになる。石川が前川佐美雄と行動を共にして『カメレオン』『日本歌人』創刊に参加したのに対し、木俣は白秋のもとにとどまって『多磨』創刊の際も師に付き従った。

 『日本歌人』の『シネマ』批評特集号(1937年9月)に、木俣は「若き日の石川信雄」と題するエッセイを寄せている。全体的に覚めた調子ながら、さすがに石川の人となりをよく知っていると思わせるものだ。

 ……信雄ほどお茶の好きな男はなかつた。彼は酒のある風景を嫌つて、つねに美しい少女のゐる、いいレコードのある喫茶店を求めて行つた。酒のもたらす、あのくどいじめじめとした古風な世界が彼にはたまらなく嫌であつたのだと思ふ。


 「酒のある風景」や「酒のもたらす、あのくどいじめじめとした古風な世界」とは、日本の古い酒宴のイメージだろう。『シネマ』に、

アブサンに口を焼くころ瞳孔のひらいた少女(をとめ)わが前にゐき


という歌があるところを見ると、必ずしも酒そのものを近付けなかったわけではないらしい。ともあれ、木俣が上のように記した後に引いているのは、次の一首だ。

すぐにもう打明けたがる若者と交はりを断ちて今此処にある


 木俣は次のように言葉を続ける。

 かうした人情世界には、他の場合でも彼は耳をそむけた。明るい近代的な空気の中で、薫りのいゝコーヒーをすすつてゐるのなら何時間ゐてもよかつたのだ。彼が自然主義的な人情歌を白眼視したこと、彼の歌に明るさと香気があつて、そして言語の音楽をやかましく考へてゐることなどをこの彼の生活の一方向と結びつけて見ると実に興味がある。


 明るさ、香気、音楽性。『シネマ』の特徴を言い当てた言葉として納得できる。そして、それらは石川の実生活上の志向と一致していたというのである。

 石川本人の手に成るものだという、『シネマ』各歌の注釈を岩崎芳秋『石川信夫研究』(短歌新聞社、2004年)が紹介している。石川が何にいつ記したのか、だれがそれを所蔵しているのか、岩崎がそれをいかなる経緯で閲覧したのか。基本的な事柄が不明なので、その資料的価値の判断はしばらく留保せざるをえないが、ともかく上の引用歌に対する文言を見ると、次のようなものである。

 KI氏、OK氏等を言ふや。「エスプリ」より「短歌作品」への転換期において美学並倫理学に余は全く生れ変れり。SMの鞭撻とコクトオの試論〝赤と黒〟の影響による女々しさ、グチッポサを軽蔑せんとするや


 KIは、忍足ユミ「評伝石川信雄:非運の大器」6(『滄』78号、2013年8月)が指摘するとおり、筏井嘉一。また、SMは明らかに前川佐美雄のこと。では、OKは?

 そう、木俣修だろう。石川の意識の中では、「すぐにもう打明けたがる若者」の一人は木俣だったらしいのだ。木俣がそのことに気付きつつ、その歌を引いたのかどうかは分からない。ただ、「若き日の石川信雄」を読むかぎり、木俣の方でも自己と異質のものを石川の中に見ていたようだ。


(2014.8.24 記、2015.3.1 補記)

 前川佐美雄の一首として、本書は『大和』(1940年)から

春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ


を採っているが、その解説中にさらに次の歌を引いている(186頁)のが目を引いた。

ひじやうなる白痴の我は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる


 『植物祭』の、これも著名な歌である。ただし、1930年の初版本では第二句が「白痴の僕」になっていた。そして私の知るかぎり、この歌は後年、多くのアンソロジーにその初版本の形で入り、多くの論文・評論・随筆にもその形で引かれてきたのである。

 では、「白痴の我」という見慣れない本文は一体どこから? 『植物祭』には、1947年に出た改版本がある。実はその本では「白痴の我」なのである。奇妙な話だが、永田は従来ほとんど問題にされたことのないこの改版本、もしくはそれを底本にする文庫本の類(未確認)からわざわざ引いてきたもののようだ。

 思うに、この「僕」と「我」の違いは、一首全体の内容に大きく関わるものだ。そもそも、白痴を自覚する人は白痴らしくない。「白痴の我」は綺麗に整理された言い回しで、白痴本人の物言いとは到底感じられない。ところが、「白痴の僕」になると、この「到底」がちょっと揺るがないだろうか? 格調高い伝統文芸のうちに、大真面目に話し言葉の一人称を使用する。その落差がとぼけた印象を生み、彼の正気を一瞬疑わせないだろうか。

 「白痴の我」は作者自身が歌をつまらなくした改悪だと私は思う。


(2015.1.31 記)

 石川信雄『シネマ』の巻頭歌は、
 

春庭(はるには)は白や黄の花のまつさかりわが家(いへ)はもはやうしろに見えぬ



 初出を知らないが、私が未見の『短歌作品』1巻3号(1932年)かもしれない。
 

フランスの租界は庭もかいだんも窓も小部屋もあんずのさかり

  斎藤史『魚歌』



への影響を指摘する論考をどこかで読んだ気がするので、ちょっと探してみたが見つからなかった。どなたかご存じないですか? 

 確かにこの二首の用語は似通っているが、一方でその違いも見逃せない。「わが家はもはやうしろに見えぬ」は、生まれ育った家への反抗、過去の自分の生き方からの脱却などを表していると読める。モダニズムと単純に戯れているだけではないのだ。

 対する史の歌には、モダンへの憧れからはみ出す何かがない。どちらが垢抜けているかといえば、それは史の方だろう。加えて、「租界」の「あんず」といった具体の重しを付けて一首の印象を鮮明にする辺りは、早くも佐美雄や石川の亜流にとどまらないセンスのよさを示している。


     §


 ところで、「フランスの租界」の歌の一つの特徴は、「も」を四度も繰り返して場所を列挙する言い回しにある。これについては、『シネマ』の次の一首を参考に挙げておきたい。
 

新聞よ花道よ青いドオランよパイプよタイよ遠い合図よ



 こちらは、「よ」を付けて事物を列挙するだけで一首を成り立たせている。当時にあっては、ずいぶん思い切った作と見られただろう。

 初出は「新聞よ」が『短歌作品』2巻1号(1932年1月)で、「フランスの」が同2巻3号(同年3月)。また、史の「歌集『シネマ』」はこの「新聞よ」を引いて、
 

 人の作品ながら、これはもうその頃の私にはいつも髪にさす花のかんざしのやうに身近いものに思はれた。



と告白している。両者の影響関係を想定しない方が不自然というものだ。


(2014.12.21 記)

 ついでにもう一言。二・二六事件を題材にした「濁流」について、篠さんは

  『日本短歌』1937年1月号

を初出と見做しているが、私の調査では、これは初出ではない。それより早い、

  『現代代表女流年刊歌集』第二輯(1936年12月)

に「濁流」と題する歌篇が掲載されていることを、私はすでに報告している(共著『殺しの短歌史』水声社、2010年)。篠さん、読んでくださっていないのですね。


     §


 斎藤史の父で陸軍の第十一旅団長だった瀏は、済南事件の後、予備役に編入された。このことについて、篠さんが「不運な扱いを受ける」と記しているのが印象的だ。篠さんの今回の文章は全体的に史に寄り添うような書き方になっているが、ここに限っては、自身の政治信条と歴史認識から「不当な扱い」とは書けなかったのだろう。


(2014.11.2 記)

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