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新しき手帳開きてまづ記す君の誕生日そして命日

  今泉重子(かさね)遺稿集『龍在峠』(2007年)



 今泉さんは婚約者の病死から半年後、婚約者の誕生日に当たる3月20日に自裁した。その日は今泉さんの命日ともなったわけである。一ノ関忠人「遺書」(『龍在峠』栞)は掲出歌について次のように記している。
 

 新しい年の手帳、まず最初に記すのは恋人の誕生日とその命日。それだけのことなのだが、誕生日は即ち自分の命日になる。こう読むと、すべて覚悟の上、予定の上の行動であったことがわかる。



 久しぶりにこの文章を読んで、「自分の命日」という解釈には無理があると感じた。私たちの言葉の表現として、自身の死の日を「命日」とは呼ばないと思うのだ。ところが、気になって少し調べてみると、『玉ゆら』の鈴木久美子さんが、
 

 やはり生きてほしかった、君の誕生日が自分の命日になる、などと歌わないでほしかった……。

(『玉ゆら』2007年秋号。我が家の書架に見当たらないので、申し訳ないが『白鳥』2008年7月号の一ノ関忠人「書評抄」から孫引き。)



と書いていたようで、これに触れて一ノ関さんは次のように軌道修正しているのだ。
 

 ただ、「君の誕生日が自分の命日になる」と今泉は歌ったわけではなかったことも、言っておきたい。これは私も栞文に書いたけれど、この歌はそうした誤読を誘うところがある。しかし、感傷にとらわれずに読めば、一首は新しい手帳に死んだ婚約者の誕生日と命日を記したというにすぎない。

  (「書評抄」)



 これを読んだ上で、もう一度初めの一ノ関さんの文章に戻ってみると、元々その言い方と鈴木さんの言い方とは幾分違っていたことに気付く。前者の注意点は「こう読むと」という条件節。仮にこのように読み替えてみれば、ということなのだ。ただ、その一文を「わかる」という断定調の述語で結んだので、仮定が仮定でなくなってしまっている。

 文章は残るから恐い。後になって別の本で訂正しても、初めの文章の読者がその訂正文を読んでくれる保証はないのである。


(2014.3.22 記)

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