最新の頁   »   斎藤茂吉  »  「帚ぐさの実」の歌をめぐって
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 今の一部の歌人や研究者は、斎藤茂吉の歌をよほど異常な歌のように思っているらしい。そのような読み方を広めたのは、塚本邦雄『茂吉秀歌』だろう。同書は「名歌」という評価をいったん留保して、自由に茂吉の作品を読み味わうことを促した。そのこと自体は意義深いことだったと思う。しかし、いまや塚本流の読み方が一つの標準となり、それが作品の誤読を誘うこともあるのではないか、と私は疑っている。『赤光』の歌に対する品田悦一さんや大辻隆弘さんの奇妙な解釈については、以前当ブログに書いた。

 昨夏ウェブ上に発表された田中濯「うなぎ」(「詩客」短歌時評)もまた、塚本流の読み方が一首の解釈を誤らせた一例のように私には思われる。
 

隣室に人は死ねどもひたぶるに帚(ははき)ぐさの実食ひたかりけり

 (『赤光』初版、1912年)



 田中さんはこの歌について「まちがいなく異常な歌である」という。そして「他者の死に近いときに食欲は湧くものだろうか」と問い、藤島秀憲『すずめ』(2013年)の歌二首、
 

四百円の焼鮭弁当この賞味期限の内に死ぬんだ父は
手をつけぬままの弁当捨てにゆくふたたび冷えている白い飯



を引用したうえで、次のように述べる。
 

 なるほど、異常な状況のときに特定のものに対する異常な執着、この場合は食欲が生まれる、というのは「ありそう」ではある。しかし、それは藤島の場合のように実のところない、のではないだろうか。せいぜい、咽喉がかわいて飲み物が欲しくなる、程度のように思う。



 田中さんの主張を私なりに整理していえばこうだ——。


 (1)人の死に際して食欲が生まれるのは異常である。
 (2)そのような内容をもつ茂吉の歌は異常であり、現実性を感じない。
 (3)茂吉の歌が後続の歌人に影響して「死の定型的表現」になっている。

 (4)藤島の歌の作中主体は人の死に際して食欲を失う。
 (5)それゆえ、藤島の歌は「死の定型的表現」を免れている。


 (3)の「死の定型的表現」説を検討するためには短歌史をたどらなければならないので、ここではしばらく措こう。(2)は茂吉の歌に対して否定的な意見を述べたものだ。しかし、その意見の前提になっている「異常」という解釈は間違っていると私は思う。だから、(4)の藤島の歌との比較も、とくに意味のあるものとは思えない。

 実際、茂吉の歌はどのような状況を述べ表わしたものなのか。初版『赤光』では、この歌は「分病室」と題する四首連作中の一首であり、前後はそれぞれ次のような歌だった。
 

この度(たび)は死ぬかも知れずと思(も)ひし玉ゆら氷枕(ひようちん)の氷(ひ)は解け居たりけり

熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら稚な児のごと物を思へり



 作中主体は自身が死を意識するような熱病で入院し、いまそこから回復しつつある。隣室の「人」という表現はそれが肉親でも友人でもないことを伝えているが、さらに一連全体をみれば、それが隣りの病室にいる別の入院患者であることは疑う余地も無い。

 帚ぐさの実の歌が述べ表わしているのは、病室の壁を隔てて他人が死ぬときに自分は生き残るという現実であり、その生の実感なのだ。見ず知らずの人の死をさほど悲しく思わないとしても、それが人情というものだろう。回復期にある患者であれば、食欲が生まれるのはむしろ自然なことだ。「食ひたかりけり」は本能的な生存欲の表現として理解できる。

 ここまで確認すれば、肉親の死を題材にした藤島の歌が比較の対象になり得ないことは明らかではないか。しかも注意すべきは、茂吉の歌の態度である。人は死ねども——。この逆接の「ども」は、食欲が生まれて当然の状況でなお、そのことに違和感を持つ主体の感情を表わしている。隣りで人が死んだのに不謹慎だ、というわけだ。この主体が斎藤茂吉その人だとすれば、茂吉は常識ある社会人であったと見なければならない。

 塚本邦雄『茂吉秀歌:『赤光』百首』は、
 

 「人は死ねども」の「ども」は、みづからが作つた不条理に、斜に構えて楯ついてゐる趣だ。この心理の底をさらふなら、帚草の実の食ひたくなるのは、むしろ「人死にしかば」ではあるまいか。

 (初版は文芸春秋、1977年4月。引用は講談社学術文庫より)



というが、塚本流に茂吉の歌を鑑賞するのに「ども」の逆接は都合が悪い、ということを認めたものだろう。「斜にかまえて楯ついてゐる」というのは、苦し紛れに試みた無理筋の読みに過ぎない。

 田中さんはこの一首に異常性を見ようとし、さらにそれをつまらない虚構と見なすのだが、そもそも異常とは認めがたいのだ。虚構説は検討するまでもないと思う。

 茂吉の歌に異常性を見ることを一概に否定するものではないが、その前にまず歌の解釈を丁寧にすべきだろう。帚ぐさの実の歌は、ただ死と生の交錯を主題にした作として読むだけで十分におもしろい、と私は思う。


(2014.2.23 記)

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