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 特集「大西民子没後二十年」のなかに、佐藤通雅さんの大西論「まぼろしの椅子を超えて」がある。その文中に「大衆」だとか「名も無い人間」だとかいった言葉が出てくる。大衆の一人である自分は、読んでいるうちにだんだんと何とも言えない気分になった。

 大西民子の第一歌集『まぼろしの椅子』は、夫との別居が中心的な題材になっている。それらの歌、および大西自身による註解について、佐藤さんは次のように書いている。

 しかし、自分にはなんの落ち度もないという、徹底した無謬性にも驚かざるをえない。夫は裏切り者としてしか立ち現れず、一人の人間としての片鱗も描かれていない。さらに、自分の意地で離婚を拒み続けた場合、相手とその家族に対していかに重荷を与えるものであるかということも、全く念頭にない。これらの特異性が『まぼろしの椅子』の底流にはある。



 もし自分の配偶者が家を出て別の家族を作ったら、と考えてみる。私はそのとき、それを裏切りと思うだろう。自分にも落ち度がある、とは思わないだろう。相手の家族への配慮など、全くできないだろう。そんなに不自然な感情ではないはずだ。しかし、その感情を歌に表現するのは「特異」なことだという。

 だからドラマ性を感じとれるものの、婦人雑誌的告白文の要素もつきまとう。それが大衆受けする。だが、短歌にとっては危険な分水嶺である。



 特異な歌は大衆受けするという。そのような歌はよくないということだ。ここでは、専門歌人が「普遍」の側であり、大衆は「特異」の側にいる。

 それにしても、素直な感情の表白が許されないのだから、歌人であることは楽でない。配偶者に捨てられたうえに、歌人としての自己にも突き放されるとは、なんとまあ切ないことだろう。

リヤカーを呼びとめたれば少年は地に筆算して柿売りゆけり

  大西民子『無数の耳』



 佐藤さんがこの文章の終わりに引く歌。雪を喜ぶ都びとの歌などと同類のように私には思われる。罪はないが、だからといって取り立てて味わい深いものでもない。ところが佐藤さんは、

 こういうさりげない一首には、名も無い人間への本源的なやさしさ、なつかしさが潜んでいる。



という。そして、それを「大西民子が手に入れた大切な世界の一端」であるとして、高く評価する。佐藤さんの理想は、歌のために「名も無い」少年に取材しつつ、大衆の一員たるその少年を読者の一群からは排除することなのだ。

 もし自分が少年の立場だったら、と考えてみる。そのとき自分が感じるものは、屈辱だろう。

 
(2014.1.23 記)

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