最新の頁   »   中城ふみ子  »  山崎聡子「わたしたちが身体を所有すること」メモ
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 『ねむらない樹』vol.4(2020年2月)に掲載。特集「短歌とジェンダー」の中の一編で、一頁二段組のエッセイ。中城ふみ子『乳房喪失』(1954年)をめぐって、

 ……ある素朴な感想をわたしはもった。それは、彼女の身体は、彼女自身のものだな、ということだ。そして、そのことに、この人はかなり自覚的な作者だったんじゃないか、と思ったのだった。


と記しているのが新鮮で、興味を引かれた。ただし、その例歌として引くのは、

年々に滅びて且つは鮮しき花の原型はわがうちにあり
葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり
板の間に足指重ねて坐るとき不服従なるわれの姿よ


なのだが、

 わたしが心打たれるのは(略)「花の原型はわがうちにあり」と言い切る矜持であり、乳房を失っても無傷である背中を誇る不服従な強さのほうだ。


という説明を聞かされても、なぜこれらの歌が「わたし」の身体を「わたし」自身のものとして表現したと言えるのかは、今一つよく分からなかった。もっと詳しい説明を読んでみたい。なお、山崎は『乳房喪失』の受容史を

 この歌集は、女性の象徴(と思われている乳房)を失った病気の女、さらには、結婚に破れ、なおも奔放な恋愛を謳歌した子持ちの女、という物語のなかで解釈されてきた。


とまとめているが、これは妥当だろうか。菱川善夫『鑑賞中城ふみ子の秀歌』(1977年)はもちろんのこと、同時代の若月彰『乳房よ永遠なれ』(1955年)ですら、すでにそのような解釈にとどまってはいない。そうであるにも関わらず、「病気の女」「なおも奔放な恋愛を謳歌した子持ちの女、という物語のなかで解釈されてきた」と単純に信じ込むことの方がよほど通俗的だと私は思う。


(2020.6.14 記)


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