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 引き続き、同じ座談会の感想。

くろんぼのあの友達も春となり掌を桃色にみがいてかざす
  斎藤史『魚歌』(1940年)


 この一首について、加藤英彦が「差別性は感じない」と述べたのに対し、染野太朗は、

 ぼくはグレーだと思うんです。この歌は「くろんぼ」賛歌に(略)見えるんだけど、「桃色」との対比に使われちゃっているところがぼくは嫌な感じがします。


と反論している。私自身の感覚は、ここでは染野の方に近い。ただ、なぜ「桃色」との対比になると「嫌な感じ」がするのか、説明するのはなかなか難しいように思う。染野も「それはおいとくとしても」などと言ってすぐに論点を別に移していて、残念だ。

 「嫌な感じ」の原因は「桃色」自体ではなく、「みがいて」の方にあるのかもしれない。桃色は彼の掌の生来の色であるはずなのに、まるで磨いて桃色にしたかのような言い方だ。そこに人の肌の色を一般と特殊に分ける視線を私は感じてしまうのかもしれない。


     §


 ところで、染野もまた、「桃色」そのものよりもっと問題にすべきところがあると主張している。

 それはおいとくとしても、「くろんぼ」は問題がある。


 クロンボは要するに「黒の坊」で、その「坊」に黒人蔑視が表れている——といった見解かと思えば、そうではない。言い回しはどうあれ、黒人・黄色人種・白人などと「カテゴライズしてしまうまなざし」がいけないというのだ。この座談会中、最も先鋭的な問題提起だろう。染野は、

ふくれたるあかき手をあて婢女(はしため)が泣ける厨に春は光れり
  北原白秋『桐の花』(1913年)

円山の長椅子(ベンチ)に凭りてあはれにも娼婦のあそぶ春のゆふぐれ
  吉井勇『祇園歌集』(1915年)

二十(はたち)からしたの少女(をとめ)をわれは好きまつしろい雲を見おくつてゐる
  石川信雄『シネマ』(1936年)


といった歌をも挙げた上で、次のように述べる。

 われわれはこれだけ差別はいけないとか個々人が大切だとか言いながら、結局、相手をカテゴライズしたそのなかで見ている。なんらかの先入観があり、差別につながりうる「差異」をまず見ている。かつ、そのまなざしが現代にも続いている気がするから、まずいと思う。


 つまり、「くろんぼ」や「婢女」「娼婦」「二十からしたの少女」は何らかの先入観に基づくカテゴライズであり、それは差別につながりうる「差異」にまず目を付けることだ、というのだ。差別以前の行為まで批判の対象にしようというのだから、かなりの戦線拡大と見てよいだろう。

 私なりに色々と考えてみたが、結論から言えば、私は首肯できない。批判すべきカテゴライズの範囲が明確でないし、それを批判すべき理由もいまだ明快に説明されていないと私には思われるからだ。

 まず、範囲について。あらゆるカテゴライズが否定されるべきなのだろうか。染野が石川信雄の一首を引きながら、それについてほとんど何も解説していないことは、ここでの議論をいささか分かりにくくしている。「くろんぼ」「婢女」「娼婦」がそれぞれの作中に一人の人物として登場するのと違い、「二十からしたの少女」はそのようなカテゴリー自体を表す。カテゴライズを目的とする表現に対して「カテゴライズは駄目だ」と突っかかるのはナンセンスではないのか。

 もしかすると、「二十からしたの少女をわれは好き」の内容全体に問題を感じる人もいるかもしれない。その人はその内容全体を問題にすればよいと思う。ただそれだけのことではないのか。

はつなつのゆふべひたひを光らせて保險屋が遠き死を賣りにくる
  塚本邦雄『緑色研究』(1958年)


 こちらは「……差別語の使用例」に入っていた一首。編集部は「保險屋」の「〜屋」を問題視したと推測されるが、それは一方でカテゴライズの表現でもある。こういった表現をも染野は否定するだろうか。ここでの作者の意図は、保険販売に従事する一人の人物を描写することでなく、その業種・職種に象徴的な意味を担わせるところにあったと思われる。そういった表現意図に対して、カテゴライズ批判はやはり無効ではないか。

 次に、理由について。範囲に関する疑問は一旦保留にしておこう。染野は白秋の「婢女」の一首、および勇の「娼婦」の一首を批判する理由に関して、

 自分は外側に立って、社会的に弱いひとたちだからこそ輝かせる、みたいなところが嫌ですね。


と述べ、さらに、

 「婢女」とカテゴライズすることで、そのひとがもっていたはずのそれ以外の属性が消えることにもなる。


と述べてもいる。一つ目の発言は、私もほぼ同感だ。しかし、これは「社会的に弱いひと」に取材した歌を批判する理由としては成立しているが、カテゴライズ批判の理由としては成立していないと思う。

上海の煙草屋陳が陳荘はコンクリートに少し蔓かかりたり
  土屋文明『韮菁集』(1945年)


 「……差別語の使用例」の中の一首。前々回の記事で取り上げた「極道」もそうだったが、この「煙草屋」なども「社会的に弱いひと」ではなさそうだ。こういった歌にも当てはまるものでなければカテゴライズ批判の理由にならないだろう。

 では、二つ目の発言はどうか。カテゴライズによって他の属性が見えなくなるとの指摘は、確かにあらゆるカテゴライズに当てはまる。しかし、こちらの発言に私はより根本的な疑問を感じた。

 「そのひとがもっていたはずのそれ以外の属性」を作品の上で消去することは、差別表現がそうであるように、倫理的な問題になる——のだろうか。染野は倫理的な問題になると考えているわけだが、一連の発言でその根拠になりそうなのは結局元に戻って、それが「差別につながりうる」というところだけだ。ところが、その発言がいみじくも示している通り、ある人の一つの属性だけに注目して他の属性に注目しないことは、ある人を差別することと同じではない。それは差別につながるかもしれないが、つながらないかもしれない。そうだとすると、それを倫理的な問題と見なすべき根拠を染野はまだ提示できていないのではないか。


     §


(つづく)


(2020.4.19 記)

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