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 花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった

   吉川宏志『青蟬』(1995年)



 土岐友浩のウェブ上のコラム「リアリティの重心」(1月1日付)が掲出歌の解釈の問題を紹介していて、おもしろく思った。一方、このコラムの内容がウェブ上で話題になっていることは、花笠海月がツイッターの関連ツイートをまとめているのを見て知った。そこに転載されている無数のツイートを私は一応読み通したが、こちらは一種の苦行だった。私の知りたいことの大方は誰も教えてくれないのだが、もしかしてこの後誰かが教えてくれるかも知れないと思うと、途中で読むのを止めるわけにもいかなかったからだ。


     §


 土岐によれば、この一首の内容は従来、花水木が立つ道で愛を告白したと解されてきた。ところが、「いまの若い人」は正反対の解釈、つまり愛を結局告白できなかった歌として受け取るのだという。土岐自身はやはり通説の通りに解していたようで、次のように述べている。

 告白の場面と読んで誰も疑わなかった吉川の歌に、そもそも「愛を告げていない」という新しい解釈が登場し、広まりつつあるのはなぜか。/それは「若者」の読解力の問題だろうか。/そうでなければ、何か大きな、とても大きな変化が、短歌に起きているのではないだろうか。


 実を言うと、私もまた、これまで通説のように読んでいた。『青蟬』は刊行直後に読んで大いに刺激を受けた本だが、以来二十五年、私は新解釈のような読み方が成立し得ることに初めて気付かされたのだ。非常におもしろいと思った。

 では、花笠が採集したツイートは、どのようなものだったか。多くの発言はその客観的根拠を示しておらず、そういう読み方をする人がいるというサンプルとして貴重ではあるものの、一首の解釈の当否を考える上で参考になるものではなかった。その中で、救済(さちこ)と中島裕介の発言が数少ない例外と思われた。

 前者のツイート、およびnote「花水木の歌の意味論」は論理学の知見を用いて解釈の揺れる原因を説明しようとするものだった。私は論理学の知識を持たないので、その論旨を正確に理解できているか、今一つ自信がない。ただ、あくまで一編の説明文として読むとき、「運動会は中止だった」が偽になる文例の説明を済ませる前に「愛を告げられなかった」が偽になる結論に移るのは相当強引なように感じられた。読者のほとんど全員が論理学の門外漢に決まっているのだから、説明の手順を省かないでほしいと思った。

 後者はただ一人、原歌の言葉の辞書的意味に言及しつつ、それを解釈の基礎とする手法を示唆したものだった。その手法自体はもちろん初歩的かつ一般的ではあるが、ここでは非常に有力であるように私には感じられた。ただし、

 文法的には「ても」が事実的逆説(告げた。「長かったら/短かったら」)と仮定的逆説(告げられなかった。「煮ても焼いても食えぬ」的な、「長かろうが短かろうが」)の両方に用いられる点が大きそう。


という発言のうち、「ても」の用法を「事実的逆説」と取って「愛を告げた」との解釈を肯定するところは、国語辞典の誤読だろう。中島がリンクを貼ったコトバンクの「ても」の項を全て読んでみたが、そのような解釈を許容する記述はどこにもない。したがって、この発言内容の全体について首肯することはできなかった。


     §


 辞書に載る語意の通りに読むとしたら、おそらく——驚くべきことに通説は誤りで、新説の方が正しい。接続助詞「ても」は、

 逆接の仮定条件を示す。(『日本国語大辞典』第二版)


とあらゆる国語辞典が説明する。例えば、「煮ても焼いても食えない」という成語。そのままでは食えないものを煮たり焼いたりしたら——普通は「食える」となるところを「食えない」につながる。逆接とはそういうことだ。そして、注意すべきは、このとき既定の事柄と仮定条件に対して予想される結果とが一致することだ。元来「食えない」のであり、「煮たり焼いたりしたら」の予想も同じく「食えない」のだ。

 「ても」がこのような言葉だとすると、掲出歌はどうか。「花水木の道があれより」長かったり短かったりしたら——「愛を告げることができた」となるべきところを、逆接で「愛を告げられなかった」。そして、このとき、既定の事実は? そう、仮定条件に対して予想される結果と同じ、「愛を告げられなかった」だ。「私」は肩を並べて歩く人に愛を告白できなかったのであり、その花水木の道がもう少し長かったらとか、もう少し短かったらとか想像してはみるが、結局のところ、その場合も同じ結末になったとしか思えない、というのだ。


     §


 ところで、日本語を母語として使用してきた私の言語感覚は、通説に抵抗を覚えない。それもまた確かなことだ。私だけではない。土岐が引用する東直子の文章も、土岐本人も、通説の側に立っているのだ。通説が辞書の記述に反するというのに、これは一体どうしたことか。


(つづく)


(2020.1.13 記)

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