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灯を消してしのびやかに隣に来るものを快楽(けらく)の如くに今は狎らしつ

 (『花の原型』1955年)


 この一首について、2004年9月の講演の記録「ふみ子からのメッセージ:中城ふみ子賞の選考を終えて」には、

 どうやってその死神を狎らしたんでしょう。「快楽の如くに」とありますから、わかりやすく言えば死神とセックスしたということですね。死神に自分の肉体を与えて、死神さえもなだめてしまった。すごいエロスです。(略)やはり五十年経ってもこういう歌は中城さんしか作れないし、百年経っても多分作れないでしょうね。(菱川善夫著作集第五巻『おのれが花:中城ふみ子論と鑑賞』195-196頁)


などとある。これに対し、阿木津英は次のように批判する。

 「快楽の如くに」が、セックスの快楽とどうして断定できるのか。地上的な快楽はセックスばかりではあるまい。あまりにも性に結びつけすぎる解釈、この場合はとまどいさえ覚える。(「批評家菱川善夫の死角:中城ふみ子論を中心として」)


 すでに引いた〈「女の性の飢渇感」も、男にはすべてお見通しというがごとくに決めつけてくる〉はこの直後に続いている。女は性に飢えているといった偏った女性観により、本来性愛に関係しない歌を密接に関係するかのように誤読した、と主張するのだろう。

 実を言えば、私などもこの一首の「快楽」を性の快楽と解していた。私もまた、偏った女性観の持ち主として批判される立場にある、ということになりそうだ。

 しかし、私たちの解釈はそれほど無理なものだろうか。「灯を消してしのびやかに隣に来る」を同衾と取るのは、ごく自然なことだと思う。この場面で性の快楽を想定してはいけないというのであれば、そこにふさわしい快楽として他に何を想定できるのか、教えてもらいたい。

 上の講演で、菱川は「こういう歌は中城さんしか作れない」としている。ただ、そのように賛嘆する理由を明確には示していない。そこで、同時期の別の講演の記録「自由への口づけ」(2004年7月)を見ると、その理由に触れたところがある。

 つまり死神とセックスしたということです。それを死神を狎らしたと言っている、すごい歌ですよ。こういうふうに中城さんは、死の間際にあっても、死神からも自由でありえた。むしろ主導権を握っているのは彼女の方であって、死神さえも手なづけられてしまっている。(略)彼女自身の中にどういうふうに自由を倫理化して生きていこうかという一つの考え方があって、その結論が、うたの中に魅力ある輝きを放っているととらえることができます。(同書248頁。菱川善夫著作集は校正ミスが多く、残念ながら引用元とするには今一つ信頼できない本である。引用に際し、明らかな校正ミスは訂正した)


 同衾の場面で彼女が主体的な行為者であること、すなわち自分を支配しようと目論む者に対して自由であること、を菱川は高く評価した。そして、そこに自由の倫理化という一個の主題を見出した。それを偏った女性観の表れとばかり捉えることは、やはり正当でないだろう。

 ところが、阿木津はこうした点には目を向けようとしない。阿木津の菱川善夫論には「死角」があり、「その死角からくる欠落は顕著に現れた」ように私には思われるが、どうだろう。


(2019.6.28 記)

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