最新の頁   »   短歌一般  »  秋分の日の電車にて その2
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 それにしても、「日」の字が電車の窓を想起させると平岡直子が書くと、本当にそう見えてくるのが不思議だ。この人の言説は何となく教祖めいていて恐い。ただし、時代考証をきっちりするなら「電車の窓」説は苦しいだろう、というのが前回の記事の主旨。ああ、われながら野暮だ。華やかな弁論術の真似は、私にはできない。

 引き続き、佐藤佐太郎の代表歌、

秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く

 (『帰潮』1952年)


に関する話である。

 この歌を読むときに、迷わず昼間の電車を思い浮かべなかっただろうか。夜の電車でも歌意は通る。窓からさす街の灯りかもしれないし、あるいは床を垂直に照らす車内灯かもしれない。それでもこの電車に昼の光を感じ(略)てしまうのは、「秋分の日」によって決定していたことなのだ。わたしはこの歌の「日」の字なら飽きずにずっと眺めていられる。


 前回も取り上げた平岡直子「一首鑑賞:日々のクオリア」の、これは末尾の記述。私はこれにも虚を突かれ、問題の一首を何度も読み返すことになった。たしかに「床にさす光」が日光だとはどこにも明示されていない。そして、そうであるにも関わらず、読者は昼の電車を思い浮かべるという。言われてみれば、その通り。しかし、なぜ昼の電車を思い浮かべてしまうのだろう。

 平岡は、「秋分の日」の「日」の一字が日光を連想させるからだという。おもしろい指摘だと思う。ただ、「夜の電車でも歌意は通る」というのは、筆がやや走り過ぎたのではないか。車内灯が照らす床の上にさらに「街の灯り」が重なって見えることなど、現実にはあり得ない。たとえあり得たとしても、街の明かりはたちまち流れ去り、あるいは明滅を繰り返すはずだ。

 電車が疾走して外景がどんどん移るのに日ざしは動かずにおかれたもののように床に照っているというのである。(佐藤佐太郎『短歌指導』短歌新聞社、1964年、133頁)


という佐太郎本人の注記を待つまでもない。動かないように見える光だから「ともに運ばれて行く」となるわけだ。昼の日光以外でそのような光があるかというと、まあ、ないだろう。読者が「迷わず昼間の電車を思い浮かべ」ることができる第一の理由はこれだと私は思う。なお、動詞「さす」の原義は、「ある現象や事物が直線的にいつのまにか物の内部や空間に運動する」(広辞苑)。車内灯が車内の床を照らすことについて、「さす」とは言わない気がする。

 ところで、大辻隆弘『佐藤佐太郎』(コレクション日本歌人選、笠間書院、2018年)は同じ一首を取り上げて、

 作者は休日の朝、人の少ない電車に揺られていたのだろう。座席に座っている作者の足下を窓から入った秋の日差しが照らす。(48頁)


と述べている。これまた、興味をそそる。なぜ朝だと限定できるのだろう。なぜ作者は座席に座っていると? 大辻が歌の言葉を離れて自由気ままに想像を膨らませるはずがない。つまり、こういうことだろう。床に差す日光が観察できるくらいだから、吊り革につかまって立っている客はおらず、作者も座席に座っている。休日で電車がすいている時間帯は朝だ——。

 大辻のこの本は、歌を読み解くことの楽しさをよく伝えてくれる。一読者としてそのことをありがたく思いつつ、さらに考えてみる。朝の日の光は電車の床に落ちるだろうか。日差しの角度から考えて、それは昼前か昼過ぎの情景ではないか。


(2019.6.9 記)

関連記事
NEXT Entry
国道16号安浦付近の思い出(1)
NEW Topics
川野里子『葛原妙子』について(6)家族こそ他者……
川野里子『葛原妙子』について(5)渡橋をくぐり……
川野里子『葛原妙子』について(番外)
川野里子『葛原妙子』について(4)ヴィヴィアン・リーと葛原妙子
川野里子『葛原妙子』について(3)塚本邦雄の処女幻想?
川野里子『葛原妙子』について(2)第一歌集の異版?
川野里子『葛原妙子』について(1)追記あり
ニホンカジンか、ニッポンカジンか
すぐには信頼できない資料 その2
すぐには信頼できない資料 その1
コメント
Trackback
コメントを書く
 管理者にだけ表示を許可する
ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 12345678910111213141516171819202122232425262728293031