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 『ねむらない樹』vol.2(2019年2月)の特集「ニューウェーブ再考」の白眉は何と言っても平岡直子「ほかでもなく」である。この一頁の批評文だけでも、ムック一冊の定価千四百円を差し出すのに値する。

 昨年6月のシンポジウム「ニューウェーブ30年」で荻原裕幸や加藤治郎、穂村弘がニューウェーブの歌人に女性は含まれないとか、彼ら自身を含む「四人」だけがニューウェーブだとか断定したのだったが、平岡の文章の目的はそれへの異議申し立てにほかならない。その一番言いたいところは結局、

 会場から東直子が挙手をして、東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人を挙げながら、彼女たちが「ニューウェーブ」に入らない理由を質問した。むろん愚問であり、ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない。


の「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」というところであり、それをわざわざ文章化した動機はもちろん、加藤によるところの、

 「女性は自由に天翔ける存在だから」という、神秘化の体で女性を疎外するほとんど典型的な性差別発言……


に対する反感だろう。

 瞠目すべきはこの異議申し立てをそのまま理屈っぽく述べるのでなく、怪しげな寓話仕立てでもってしたことだ。老いも若きも真っ正直な人たちが揃う(?)歌壇にあって、このような論争術の持ち主は得がたい。しかも、その寓話を作り出す想像力や構想力が卓越している。

 荻原らは東直子やその他「何人かの女性歌人」をニューウェーブから除外した。それは実際のところ、ニューウェーブが秘密の「塚本邦雄のファンクラブ」だからだ——と平岡は言うのだが、このたとえ話はニューウェーブをまことにうさん臭く、滑稽な小集団として印象付けることに成功している。

 なるほど、荻原はニューウェーブを自称し始めた当時、塚本邦雄が主宰する結社玲瓏の会員であったし、穂村は塚本の影響を受けたことをたびたび公言してきた。このように虚構に真実を紛れ込ませるのもまた、虚構にもっともらしさを与える論争術の一種であり、

 後進の才能も精力的に発掘し、枯らせたり咲かせたりした。


という一文や、

 次第に「ニューウェーブ」という名称は一人歩きをはじめ、それを政治集団だと思う者も、方法論だと思う者も(略)いたけれど、彼らはあえて誤解されるままに任せた。


という箇所もその類であって、その冴えた技巧は修辞の妙も兼ね備えて見事なものだ。

 彼らが開発した軽くあかるく空虚なポエジーは短歌史上にきらめく雲のようにぽっかりと浮かんでおり、それを目印にして多くの人が短歌の扉を叩いてきた。


というのも、平岡としては虚構の中の真実のつもりで書いたものだろう。そして、きわめつけが末尾の歌の引用である。

萬緑の毒の緑青なにゆゑにどの山もみな男名前か

  塚本邦雄


 正直に言えば、私はこの一首を知らなかった。塚本のちょうど九十年代の歌集か、あるいは何かの選集で目にした気もするが、とにかくはっきりとした記憶がない。いやもちろん、私がそうだというだけで、現代短歌の読者にはよく知られた歌なのかも知れないが、少なくとも私のような者に平岡の読書量のとてつもなさを恐れさせる役目をこの歌の引用は果たした。

 なおまた、塚本歌集では塚本歌集なりの文脈で読まれるに違いない一首を、それとは異なる自分一人の文脈に引き付けて利用し、しかもその字句との間に少しの矛盾もない点、本音は自分の言葉でなく他人の言葉に語らせる点も平岡の論争術の一部であり、それをさりげなく使いこなすさまはほとんど老獪と言ってもよいほどだ。

 あの塚本邦雄のファンクラブとしては、装飾的な漢字の組み合わせによる煌びやかな、そしてどこか呪詛的な名前がもちろんふさわしかったけれど、「ニューウェーブ」という間延びしたカタカナの名称があえて選ばれたのは、それがファンクラブであることを世間の目から隠すためであった。表向きはほかの結社に所属し、ほかの前衛歌人に師事している隠れキリシタンのような会員もいたためである。


とは前半の一節。伝え聞くところによると、加藤が最近、ツイッターで「私は、岡井隆です/ファンクラブなんて生易しいものでもない」云々とつぶやいていたそうだ。平岡の文章への抗議だろう。しかし、全てはニューウェーブ四人説に皮肉を言うためのたとえ話であり、笑い話なのだ。加藤がニューウェーブ四人説を撤回できない以上、その抗議も無効に終わるほかないと思う。

 もちろん、肝心かなめの「東自身を含め、年代や作風の傾向を同じくするはずの何人かの女性歌人」なる主張の根拠は、平岡は全然示していない。その意味で、ここでの平岡の主張の中身は真偽不明の思い付きに過ぎない。また、彼女たちがニューウェーブに入れない理由のパロディーたる「ファンクラブなのだから年齢が近いからといって誰でも彼でも入れるわけがない」においては「作風」への言及が抜け落ちており、寓話の論理に若干無理が混じりかけてもいる。しかし、だからといってこの批評文全体に対しフェイクだなどと真っ当に過ぎる判定を下す人が仮にいるとしたら、平岡の論争術と修辞に学ぶことを私はその人に奨めたい。

 終わりに一つ、私が納得の行かなかったところに触れておこう。西田政史は玲瓏の元会員ながら昨年のシンポジウムでみずから「塚本邦雄のファンクラブ」の一員であることを否定していたはずだが、その西田をも平岡が執拗にファンクラブの一員に数えようとするのはなぜなのか。

 しかし、その信仰の神聖さを説明する用意のなかった壇上の四人は慌ててしまい、いくつかの失言をした。


というのは「ほかでもない」平岡自身の言葉だが、平岡からして「四人」と決め付ける辺りに私はいささか気色の悪さを感じた。


(2019.3.9 記)

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