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 佐藤佐太郎の第一歌集『歩道』(1940年)に、

電車にて酒店加六(しゆてんかろく)に行きしかどそれより後は泥のごとしも


という著名な一首がある。秋葉四郎氏が銀座四丁目の居酒屋「酒の穴」を紹介するついでに、

 「加六」も、田村元氏の調査に拠ると、この「酒の穴」の筋向かいで、


云々と書いている(「銀座「酒の穴」」、『歌壇』2018年11月号)のを読み、驚いた。「加六」については未詳と思っていたが、田村元さんがすでに調査済みで、その所在地も突き止めているというのだ。

 田村さんはいつ、どこでそれを発表したのか。新刊『歌人の行きつけ』(いりの舎、2018年12月)を読んで分かった。巻末に秋葉四郎氏との対談の記録があり、そこで田村さんが加六について詳しく考証しているのだ。初出の記載がないので、この単行本が初収なのだろう。つまり、対談で田村さんが話したことを秋葉氏が先に随筆に書いてしまい、その後で対談記録を収める『歌人の行きつけ』が刊行された、という順序である。

追記(2019.1.30)—この対談記録の初出は『うた新聞』2015年4月号とのこと、松村正直さんからコメントをいただいた。正しい順序は、対談(2015年2月)、記録初出(『うた新聞』2015年4月)、秋葉氏の随筆(『歌壇』2018年11月)、『歌人の行きつけ』(2018年12月)となる。下のコメント欄をご参照ください。秋葉さん、失礼なことを書いてすみません。

 さて、その考証がとてもおもしろい。田村さんは佐藤佐太郎『互評自註歌集:歩道』(1948年)に「加六は銀座にある飲屋で、菊正宗の上等なのを飲ませた」とあるのを出発点に銀座関係の資料に当たり、まず明治生まれのジャーナリスト松崎天民の『銀座』(1927年)を見出だす。同書によれば、国木田独歩『号外』の舞台である「正宗ホール」が加六だという。さらに今和次郎『大東京案内』(新版、1929年)を参照して、クロネコなる店にトンネルがあり、加六に通じているとの記述があることも発見する。

 そして、最後の決め手は1935年発行の地図『躍進:大銀座街之図』(東京商工案内社)。『歌人の行きつけ』の見開き二頁分を使って、該当部分を掲げている。それを見ると、銀座二丁目の「クロネコ」の裏手に確かに「嘉六」との記載があるのである。

 考証の信頼性は複数の証拠を組み合わせることで生まれる。田村さんの加六の調査はその手本のようだ。当時の地図や書物で固有名詞の漢字表記に異同があることは、さほど珍しくもない。佐太郎の言う「銀座にある」加六と1935年の銀座の地図の嘉六は同じ店と考えてよいだろう。『号外』は1906(明治39)年初出で、佐太郎の掲出歌は1937年1月初出だから、加六は少なくとも銀座で三十年以上続いた店ということになる。

 なお、田村さんは触れていないが、銀座二丁目のクロネコは1927年に開業したカフェーの有名店。ウィキペディアの「カフェー」の項には1930年頃のクロネコの店内の写真二枚(『大東京写真帖』忠誠堂、1930年)が掲載されている。モガとモボが闊歩していた時代の銀座である。カフェーと言っても、今日のスターバックスではない。その業態は風俗営業の一種で、女給が接待して洋酒を飲ませ、男客は飲食代を払うほか、女給にチップを渡すなどするのである。

 佐太郎が掲出歌を詠んだ1936年頃のクロネコは、どんな営業の仕方だったのか、私の手元には資料がない。しかし、まだ「支那事変」の前である。警視庁の取締りもあったとはいえ、それほど大きな変化はなかったと思われる。

 東京都の中央区立図書館のサイトで、1934年の絵葉書とおぼしいクロネコの外観の写真を見ることができる。夜の闇にネオンサインがまばゆく、華やかだ。佐太郎が加六の手前で目にした光景と考えてよいだろう。田村さんの考証に教えられる以前、私は「酒店加六」をもっと違った風景として、勝手に想像していた。銀座でもややはずれのさびしい裏通りの小さな店というように。なぜだろう。佐太郎の顔写真の地味な印象が先入観として働いたものか。実際のところ、加六の客は歓楽街の灯をいっぱいに浴びながら店に通ったのだ。掲出歌の「電車」は東京市電だろうが、市電にわざわざ乗って酒を飲みに行くところに格別の欲求を読み取るべきなのかもしれない。

 興味をそそるのは、クロネコのトンネルの話である。それはまるで異界につながる通路のようではないか。掲出歌の主体がそのトンネルを通って加六に入ったとすれば、加六はまさに泥酔にふさわしい異界ということになる。私はここまで考えて、しばし想像の世界に遊んだ。佐太郎が加六の客となった頃にトンネルがまだ残存していたことが確認できればよいのだが、どうだろう。

 残念ながら、その確認はなかなかできないようだ。今和次郎の著書と同じ、1929年刊行の『東京銀座商店建築写真集』(吉田工務所出版部、国立国会図書館のサイトで全編閲覧可)という本がある。その11頁の「黒猫、オリムピツク」という見出しの写真を見ると、『歌人の行きつけ』掲載の『躍進:大銀座街之図』にあるような並び方でその二店舗が写っている。ところが、次頁の「クロネコの新装」という見出しの写真では、カフヱークロネコの外観が一新され、オリムピツクとは逆側に一区画分増築されたように見える。その説明文はこうだ。

 これは前図の旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造して面目を一新した、カフヱークロネコの新装、鎖までぶらさげての汽船模造、銀座航行曲の尖端を行かうと云ふ戦術。


 写真を見る限り、店舗の間口が二倍の広さになり、その横長の外観を真横から見る汽船のような装いに仕立てたようだ。どうして「旧建築の骨組は其侭にして、ただ外装丈けを改造」するというようなことが簡単にできたかというと、立派な西洋建築に見えて、実はいわゆる看板建築だからである。

 しかし、『躍進:大銀座街之図』によれば、オリムピツクとクロネコの先には細い横丁が一本ある。だから、クロネコはそちら側には店舗を拡張できないはずでは……? そう、これこそ「トンネル」の存在理由だろう。横丁をふさぐわけにはいかないので、トンネルにしたのである。そんなことが容易にできるのも看板建築ゆえで、表から見たら横長の間口の一棟でも、看板の後ろは二棟ということだったのだ。

 ただし、このトンネルの設置期間はごく短かったとも推測される。クロネコは、翌30年にはもう、横丁より向こう側の増設分を手放している。当時、大阪のカフェーがエロ・グロの奇抜なサービスを売りに、次々に東京進出を果たしていた。クロネコが手放した区画には大阪道頓堀のカフェー赤玉が入り、「銀座会館」となった(石川偉子「文学からみる近代日本におけるカフェ空間形成 」、第8回嗜好品文化フォーラム、2010年)。『躍進:大銀座街之図』でもオリムピツク、クロネコ、横丁を挟んで銀座会館の順で並んでいる。そして、少なくとも地図上では横丁の入口付近にトンネルがあるようには見えない。銀座会館はクロネコと一体化した外装を廃し、トンネルもなくなったと推測するのが自然だろう。

 せっかく楽しく想像したトンネルであるが、あきらめようか。
 

(2019.1.30 記)

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コメント
274
巻末の対談の初出は「うた新聞」2015年4月号です。
http://matsutanka.seesaa.net/article/417059664.html
こういう考証は本当におもしろいですね。
当時の時代の雰囲気が甦ってくる感じがします。

275
松村さん、ご指摘ありがとうございます。文章には初出の記載があるのに対談記録にはないので、早とちりしました。お恥ずかしいです。

私も古い地図とか写真とかを使った考証が好きで、田村元さんの加六発見には興奮しました。

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