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103頁〜

篠懸樹(プラタヌス)かげ行く女(こ)らが眼蓋(まなぶた)に血しほいろさし夏さりにけり

  中村憲吉『林泉集』


 第二句「かげ行く女らが」の「女」に「こ」とルビを打つのは、現代から見ればかなり嫌みな表現であろう。「娘」を「こ」と読ませるのは普通に見られるが、女を「こ」と読ませることは現代ではほとんどない。



 「女」に「こ」とルビを振るのが嫌みな表現と感じられるのに対し、「娘」に「こ」とルビを振るのは現代でも普通の表現で嫌みには感じられない、というように読める。このような感じ方は、現代の歌壇では一般的なものなのだろうか。

 私は実は少々驚いた。というのも、私は著者とは逆で、「娘」に「こ」とルビを振る方がよほど嫌みな表現と感じられるからだ。「女」に「こ」とルビを振るのは、さほど気にならない。なぜだろう。

 わが子の意味で「こ」という語を使うとき、その意味に性別は含まれない。わが子の意味で「娘」の字を使うとき、そこには「女の」という意味が含まれる。したがって、わが子の意味で「こ」という語を使い、かつそれに「娘」という字を当てるとすれば、「こ」に本来含まれない意味を漢字表記によって追加した形になる。そのことは、定型に拠りながら定型を超えた分量の意味を望む欲深さを感じさせ、ひいては嫌みを感じさせるのだろう。

 一方、若い女の意味で「こ」を使い、それに「女」の字を当てても、その表記法は「こ」に新たな意味を追加せず、むしろ本来多様な「こ」の意味を限定する。そこに意味を増やすことへの欲望は感じられない。だから、嫌みな感じもしない、ということではないか。

 「女」に「こ」とルビを振ることを永田さんが嫌みな表現と感じるのはなぜか、永田さん自身の分析を知りたいと思う。

 憲吉の第一歌集『馬鈴薯の花』は、島木赤彦との共著歌集であったが、第二歌集『林泉集』は単著で大正五年(一九一六)刊。



 大正5年の初版本『林泉集』では、この歌の第2句は「かげを行く女が」だった。「かげ行く女らが」の形になるのは、大正9年の改版本からである。歌の形は改版本のものを採りながら、解説で初版本のみに言及するというのは、読者にやや不親切か。

 この二種の形を比較すると、リズムは改版本の形がなだらか。初版本の形は幾分ギクシャク。意味内容についていえば、改版本の「女ら」は幾人もの女。初版本の「女」は1人の女か。「女ら」が風景の一部であるの対し、「女」は風景の中から浮かび上がってくる。

 どちらの形を採るかでこの1首の印象は少し変わるはずなので、著者が意図して改版本の形を採ったのであれば、その意図を知りたいと思う。

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