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 1 花笠説の要旨


 もしも花笠海月さんが法律の専門家だとしたら、私は全くの素人なのだからちょっと困る。しかし、ことは作家と作品について調べて書くときにしばしば突き当たる問題であり、私自身の拙い旧稿とも無関係ではない。だから、私も気になるところを書き付けておこう。

 それは、故人の未公表の著作物をどう取り扱えばよいか、という問題である。折しも『短歌往来』2019年1月号が永井陽子の作品を「未発表稿」として掲載している。また、これ以前に『短歌』2014年5月号が「永井陽子高校時代の未公開作品」なるものを掲載したこともあった。花笠さんの2018年12月23日付のウェブ記事「永井さんの「未発表」作品について」はこの二誌の企画を取り上げたもので、私の理解では、主に次の三点を主張する。


(1)作家には著作者人格権の一部として公表権が法的に認められている。作家に公表の意思がない著作物を他の者が公表することはできない。

(2)作家の死後に誰かがその未公表の著作物を公表するときは、作家本人に公表の意思があったことを明らかにする必要がある。また、その意思がなかったと判断される場合は、どのような手続きを経て公表に至ったのかを説明する必要がある。

(3)作家本人に公表の意思がなかった著作物は、作家の死後も公表しないでほしい。



 このうち、作家の生前の権利に関わる(1)は当然の指摘だ。他方、作家の死後の権利に関わる(2)(3)には、まだ議論の余地があるのではないかと思う。理由は主に二つある。第一に、その権利の有無や程度、保護期間については、専門家の間でも見解が分かれているように見えるということ。第二に、その主張は従来の伝記研究や文学研究の手法に見直しを求める内容を含んでいるが、それにしては従来の研究手法への言及がないことである。

 なお、上記二誌のうち、『短歌往来』掲載の作品が「未発表稿」と見なすべきものでないことは、松村正直さんのブログ「やさしい鮫日記」の2018年12月17日付の記事「「短歌往来」2019年1月号」が指摘している。また、花笠さんも『短歌』の掲載作品が「未公開作品」とはいえないことを指摘する。どちらもその通りと思う。ただ、私が考えたいのは特定の作家でなく、故人一般の公表権の問題だから、ここではそれらの指摘に詳しく触れることはしない。



 2 法的な問題


 まず法的な観点から検討しよう。花笠さんは、

 もし角川や往来の掲載されたものが本当に「未発表」であるのなら、まず永井さんの公開の意思の有無、ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要です。(同記事。以下の引用は、特に断らない限り同記事より)


と言う。(2)の主張である。永井陽子の「公開の意思の有無」を問うているのは、永井の死後もその意思を尊重すべきだと花笠さんが考えているからだ。この考え自体はまず正当なものだろう。ただし、

 発表をする・しないの決定を含む著作人格権は、没後50年経とうと、70年経とうと消滅しません。


と断言するのはどうか。確かに学界の一部には同様の見解もあるようだ。しかし、一方で著作権法の条文には

 著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない。(59条)


とあり、かつ民法には「被相続人の一身に専属した」権利は相続の対象にならないとの規定がある(896条但書)。そのことを重く見て、著作者人格権は著作者の死亡により消滅すると解する専門家も多く、文化庁はその見解を採っている。簡単に決められることではないのだ。

 もちろん、だからと言って故人の著作物を誰でもただちに自由に公表できるというわけでもない。著作権法の条文には次のような文言もある。

 著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなった後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。(60条)


 したがって、自分の著作物を公表するかしないかということに関する作家本人の意思は、作家の死後であってもやはり尊重されるべきなのだろう。

 では、それはいつまで、どの程度、尊重されるべきなのか。花笠さんは、永井に作品公表の意思が「ない場合はどういう手続きを経て公開に踏み切ったのかの説明が必要」という。これはつまり、作家に自分の著作物を公表する意思がなかったとしても、その死後に公表されることは従来あったし、今後もあると見ているのだ。そのようにして故人の著作物が公表されることを花笠さんは次のように説明する。

 「著作人格権は」「消滅しません」と書いたけど「消えないけど行使する人がいなくなる」が正確なんです。(略)(ということで年数経っちゃった人はサラッと無視される場合もあります)。

 (Twitterでの2018年12月23日付の発言)


 花笠さんの考えでは、著作者人格権の一部である公表権は著作者の死後も保護される。ただ、当然ながら、著作者自身は死後に自分の公表権を行使する手段を持たない。それゆえ、その意思に反して著作物を公表される場合もあり得る、ということだ。この通りだとすると、故人の意思に反してその著作物を公表することは、いかなる場合であっても法的に問題のある行為ということになる。

 もしこの考え方が広くみとめられるようになったら、伝記研究や文学研究は少なからずその影響を受けることになるだろう。作家の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等は通常、公表を前提に書き記されたものとは考えられない。したがって、それを公表し、研究の資料とすることはできないことになるのだ。小説好きの間で最近話題になっている日本近代文学館編『小説は書き直される:創作のバックヤード』(秀明大学出版会、2018年)などでも、法的な問題は残ることになろう。

 しかし、この考え方は妥当なのだろうか。作家の死後にその公表権が消滅するか否かの問題は、しばらく措く。いずれにしても著作物を公表するかしないかの作家本人の意思は尊重する必要があるのだが、前に述べた二つの疑問にもう一度戻ろう。第一に、その必要がある期間の問題。それは無期限なのか、それとも期間限定なのか。花笠さんは無期限説に賛同するだろう(注1)が、私は期間限定説も有力だと思う。

 著作権に関するベルヌ条約パリ改正条約は日本も批准したものだが、その条文には、著作者人格権は

 著作者の死後においても、少なくとも財産的権利が消滅するまで存続し、保護が要求される国の法令により資格を与えられる人又は団体によつて行使される。


とある(6条の2)。この故人に代わって著作者人格権を行使する資格を与えられる人とは、日本では著作物の公表の差止めを請求できる遺族、すなわち故人の配偶者、子、父母、孫、祖父母、兄弟姉妹(著作権法116条)を指すと考えられる。したがって、前述の期間は「財産的権利が消滅する」著作者の死後五十年か七十年、もしくはそれら遺族が存命の期間と解することも可能と思うのだ(参考:三浦正弘「著作者人格権の保護期間」、『国士舘法学』2010年12月)。

 第二に、故人の権利を尊重する程度の問題。死亡した作家が生前に公表しないと決めていた著作物や公表を前提にしていなかった著作物は、その内容や性質を問わず、何であっても公表が許されないのか。前に引いた著作者の死後の人格権の保護に関する条文(著作権法60条)には、次の一文が付加されている。

 ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない。


 専門家の間には、この条文の意図を比較的広く捉える見解もある。小倉秀夫「著作者人格権」(『現代知的財産法講座』Ⅱ、日本評論社、2012年)は、

 その著作者が、作家、画家、音楽家等として生前優れた業績を有している場合は、未公表の完成作品はもちろん、未完成作品やメモや草稿、素描や手紙等も高い文化的、資料価値を有しており、それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい。


と述べた上で、

 完成度に自分として納得していなかった未完成品については、それ以上完成度が高まることを期待できない以上、これを未完成品として公表する行為は当該著作者の意を害しないと認められる場合も多いであろう。


としている。この考え方によれば、著名な作家の創作ノートや推敲中の原稿の出版は、仮に遺族がその差止めを請求したとしても、認められる可能性があるということになるか。そうだとすれば、故人の公表権を尊重すべきことは当然としても、その程度は生前にその人が保持していた権利の場合より軽いことになる。

 もっとも、どの程度の行為が「著作者の意を害しないと認められる」のか、どうも分かりにくい。これまで、公表権をめぐる判例がほとんどないからだ。したがって、故人である著作者の未公表の著作物を公表しようとする者が「著作者の意を害しない」との判断を拠り所にしていても、それが否定され、法的に責任を問われる可能性は残りそうだ。

 なお、花笠さんは、

 有名人の書簡の公開をめぐって争われるのは、この公開の意思をめぐってであることが非常に多いです。


と言うが、著名な故人の書簡の公表権をめぐって争われた裁判としては、2000年に高等裁判所の判決が出たいわゆる「三島由紀夫手紙事件」しか私は知らない。花笠さんが「非常に多い」というのは訴訟にまで至らないトラブルかもしれないが、それについて詳しい方のご教示をいただければありがたいと思う。

 ここまでの検討結果をまとめよう。作家の著作物を公表するかしないかの意思をその死後も尊重すべきだ、との考えは正当だ。しかし、法的には、その尊重すべき期間は限定的である可能性がある。また、求められる尊重の程度も、作家の生前の権利に対するときより軽い可能性がある。ただし、それらの期間と程度について、現時点で具体的な基準が定まっているとは言いがたい。今後の判例や世上の議論を注視してゆく必要があるだろう。



 3 道義的な問題

 続けて、道義的な観点から検討しよう。花笠さんは、「永井さんの公開の意思の有無」および「どういう手続きを経て公開」したか、の説明が必要だというが、著作権法にそのような規定があるわけではない。道義的な問題意識に基づく主張だろう。

 私はこれに必ずしも賛成しない。仮に故人の未公表の著作物を出版するに際してその「公開の意思の有無」の説明が必要であるなら、存命の作家の新作出版でもそれは同じはずだ。しかし、あらゆる出版物にその添書きを求めることは現実的でない。

 また、「どういう手続きを経て公開」したかの説明が必要だとの主張はどうか。これはおそらく、故人にその著作物を公表する意思が無かった場合(あるいは、あったか無かったか不明の場合)、遺族の同意を得て公表したことを言明せよ、ということだろう(注2)。小倉秀夫「著作者人格権」によれば、

 著作者の遺族には、公表権の侵害となるべき行為の差止めを請求する権限はあっても(著作116条)、公表について同意を与える権限はないから、著作者の死後の未公表作品の公衆への提供・提示について「権利者から許諾ないし同意を得ることにより法的リスクを解消する」方法はない。


という。公表の差止めを請求できる遺族が公表に同意しても、非親告罪である刑事罰(著作権法120条)を受ける可能性は残るし、その遺族の死亡後に別の遺族が差止めを請求する権限を得てそれを行使する可能性も消えない。遺族の同意を得ることは、「法的リスク」を軽減はしても解消はしないのだ。それはむしろ、「当該著作者の意を害しない」かどうかの判断を遺族にゆだねることで道義的な問題を解消する方法と見るべきだろう。

 遺族の同意を得ること自体は、道義上、必要な手続きだと私も思う。遺族の同意を得ている旨を言明することが望ましいとも思う。ただ、実際にはその言明が難しいこともある。例えば、遺族が公表に積極的ではないものの、その意義は認めて暗に同意する場合などである(注3)。

 さて、花笠さんは、

 「未公開」「未発表」の意思が本人にあるならば、それを尊重してほしいです。


と言う。作家の著作物を公表するかしないかの意思は道義的にも無制限に尊重するのがよいという、(3)の主張である(注4)。出版社や研究者に向けた発言であると同時に、作家の遺族に向けた発言でもあろう。

 「三島由紀夫手紙事件」の判例から考えれば、作家が公表を前提としていない著作物は、「未公表」の意思のある著作物と同様に扱われそうだ。もしそうだとして、しかも花笠さんの(3)の願望が通るとしたら、どうか。作家の未公表の書簡・創作ノート・推敲中の原稿等を公表し、研究の資料とすることは、やはりほとんど不可能になる。伝記研究や文学研究の場で従来認められてきた手法が認められなくなるのだから、それが今後の研究に与える影響は小さくない。前に引いた法律家の言葉をここにもう一度引いておこう——「それらが公表されることがわが国の文化の発展に寄与する度合いは大きい」。






1. その後、花笠さんは2019年1月2日付でウェブ記事「著作権についての考え方」を追加している。そこでは、作家の生前に未公表だった著作物を公表するのに、

 確実に問題がないのは、没後70年すぎていて、かつ関係者および権利者も全員がすでに死亡していると思われる年月が経っている場合。


とあり、期間限定説の立場に立っているようにも見える。ただ、12月23日付「永井さんの「未発表」作品について」での主張を撤回すると明記しているわけでもないので、読み手としては両者の齟齬をどう整理して理解すればよいか迷う。また、この1月2日付記事では「あくまでも個人の考えです」と念押ししたり、著作権に繰り返し言及しつつ「法律の話ではありません」と強調したりするなど、自説を強く主張しようとはしていない。私は差し当たり、12月23日付記事を議論の対象としつつ、1月2日付記事は注で触れるにとどめる。


2. 上記1月2日付記事には、遺族に

 「OKと言ってもらう」ことは商用利用でなければ、こだわることはないと思います。


とある。しかし、公表に至るまでの「手続き」というと、私などは遺族の同意を得る手続きしか思い付かない。ただ、同じく1月2日付記事には、

 発表の経緯というか興味本位ではないということの説明は必要と思います。


との見解も示されている。これをふまえれば、当該著作物を公表することに「文学的意義」(注4参照)があるかどうかの検討を花笠さんは「手続き」と呼んでいるのかもしれない。


3. 1月2日付記事には、

 権利者と関係者との力関係などもあり、OKとは言えない場合というのもあります


とある。これは著者の遺族と出版社との関係について述べたものだろう。場合によっては遺族の同意を言明できない、ということについては花笠さんと私の見解が一致しているようだ。


4. 1月2日付記事では「あくまでも私の考え」であると断りつつ、

 発表に文学的意義があること、他の文献に記載がないものであること


が確かであるなら故人の未公表の著作物でも公表してかまわない、との基準を示している。「法律の話ではありません」との言葉の通り、道義的な基準の提案だろう。花笠さんは12月23日付記事の(3)の主張を一旦撤回したのかもしれない。



(2019.1.4 記)



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コメント
272
こんにちは。反応ありがとうございます。

新しいエントリで書いたとおり私の考えは「トラブルが起きない範囲で自由に使えばいいのではないか」です。「遺族の同意を得て公表したことを言明せよ」という考えは持っていません。

私が求めているのは「未公開作品の公開にどういう必然性があるのかを公表した人が説明できなくてはいけない」です。本人に成り代わって公開することの重さがわかっているかどうかです。
中西さんの場合なら「自分の文章のこの部分に必要だったので、故人の意思を無視してでもこの文章を使います」というのが示す用意ができていればよいと思います(文中に必須ということではありません)。

「従来の研究」は、近代作家の場合は関係者が生きていることが多いですから、このあたりは大変デリケートに扱われてきています(もちろんトラブルもありつつですが)。「従来の研究」程度でしたら私もあのトピックは書きませんでした。角川、往来はこのラインを宣伝段階では、守っていないというのが私の考えです。

273
はながささん、コメントをくださって感謝します。一昨年に『現代短歌』に載せてもらった拙稿「誰が桐谷侃三だったのか」やこれから書こうと思っている文章に直接関係するテーマと思いましたので、きちんと整理しておかなければと思い、この記事を書いてみました。法的な問題と道義的な問題を分ける必要がまずあると考えています。「未公開作品の公開にどういう必然性があるのかを公表した人が説明できなくてはいけない」というのは、このままだと一応道義的な問題の方になるのかなと思います。

「角川、往来はこのラインを宣伝段階では、守っていない」というところは、実はまだ今いちピンときていませんので、引き続き考えてみます。

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