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 斉藤斎藤さんが昨日付の日経に市川保子『日本語誤用辞典』(スリーエーネットワーク、2010年)のブックレビューを寄稿し、平岡直子の一首、

三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

(斉藤さんの文章からの孫引きです)


について次のように述べている。

 「悲しかった」と書くと、悲しい気持ちはもう過去で、今となってはいい思い出みたいだ。対して「悲しいだった」は、悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しいということだろう。文法的には間違いだけど、気持ち的にはこれが正解なのだ。


 「悲しい気持ちが当時でフリーズドライされ、お湯をそそげば今も悲しい」というのは、気の利いた比喩だと思う。ほんとうにそうだな、と納得させられる。

 一方、「文法的には間違い」との指摘はどうか。たしかに、「……悲しいだった」はあまり聞かない言い回しではある。もしかすると、これはネットスラングの借用なのかもしれないし、作者としては幼児語のつもりで使ったものかもしれない。しかし、文法上、正しいか正しくないかといえば、これは正しい。もう完全に。

 いちいち説明するような野暮なことはしたくないが、まさに「フリーズドライ」的な言い回しなのだ。

 斉藤さんの今回のコラムで、平岡直子という歌人の名を初めて知った。この一首は名歌だと思う。三越のライオンという歌枕風の素材の選び方。それが見つけられない、といった余白の多い表現が読む者の想像を誘うところ。「悲しいだった」という独特の言い回し。その繰り返しが生み出す調子。

 そして、鍵括弧等を付ければ分かりやすくなるところを、あえて付けない表記の工夫。それで「悲しいだった」の独特さもより際立つ。

 現代短歌、やるね。


(2018.11.11 記)

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