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 会津八一の最初の歌集『南京新唱』(1924年)の書名は、原案では「南都新唱」だったという。植田重雄『秋艸道人会津八一の芸術』(恒文社、1994年)がその辺りの事情に触れている。

 春陽堂に原稿を渡して、一まずほっとしたところで、親友山口剛のもとにぶらりと遊びにいった。剛に跋も書いてもらっている間柄である。その歌集の名は何であるかたずねた。奈良にちなんで、「南都新唱」という本だと語った。すると、山口剛は即座に膝を打ってカラカラ笑い出したのである。何が可笑しいかと問いつめると、「『なんとしんしょう』は廓言葉では、お太夫さんが客に口説かれたとき、何と申し上げたらよいでしょう、どうしましょうとはじらう文句なのだよ。会津君、こりゃ困ったことになりんしたわえな」。あわてたのは道人である。脂汗を流し、巨体をゆすって、その足で春陽堂にかけつけ、「南京新唱」に改めたのである。(386頁)


 山口剛は近世文学の研究者で、八一と同じ早稲田大学出身。また明治末年から早稲田中学で、後には早稲田大学文学部で八一の同僚だった。この山口の指摘によって、書名を改めたというわけだ。また、植田の著書以前、村崎凡人『窪田空穂』(長谷川書房、1954年)には次のようにある。

 文学部で顔を合わせている会津八一が、今度、歌集が出たからといつて、一冊を空穂に贈呈した。四六長判、赤地に鹿の古瓦の拓本があつて『南京新唱』と題してある。春陽堂から出ている。八一が云つた。
「はじめ、奈良の歌だから『南都新唱』としてみたのだ。そうすると、ほら、なんとしんせう、というのは、歌舞伎の廓言葉だろう。それで『南京』にしたのさ。ははは」
と大きな體をゆすつて豪放に笑つた。(296頁)


 窪田空穂もまた早稲田出身で、1920(大正9)年から早稲田大学の教員となっていた。八一が同大に勤務するようになったのは1926年で、そこからこの二人も同僚の関係だった。

 さて、植田と村崎の文を並べると、八一が廓言葉の話を山口から教えられた後、空穂のところに行って同じ話をした、という風に解される。ところが、もう少し調べてみると、村崎の方はどうも誤伝が混じっているらしい。


(2018.9.16 記)

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