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 「ニューウェーブ30年」の記録で、ほかに気付いたことをいくつか挙げておこう。


 1 西田政史 VS 穂村弘

(佐々木朔の歌の「埠頭で鍵を拾った」という内容について、穂村が「いいところでいいものを拾いすぎている」と批判したところ、寺井龍哉から「そういう批評は今は無しなんですよ」と逆に批判されたという話題を受けて)

西田 いいところでいいものを拾いすぎというのはそもそも穂村さんがやっていたことじゃないですか。そんな人がどうしてこんなこと言うのかなと思いますけど。
穂村 うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないかと。

 (『ねむらない樹』vol.1、76頁)


 西田のこの発言は、西田が穂村の初期の作風をどう見ていたかを窺わせる。加藤・荻原が穂村に切り込む場面が全然見られなかったこともあって、私には当日、最も印象深い場面の一つだった。

 私のメモでは、西田に答えた穂村の言葉は、

 いや、だから、この作者はさりげなく拾ってるんだよ。僕はさりげなくなんて拾わないもん。さりげなく埠頭で鍵を拾うみたいなのは、恵まれすぎてやしないか。僕、全然さりげなくないでしょ。


 自分が「さりげなくない」ことを、穂村はたしか、このような言い方で強調した。「いや、だから」という受け方や「さりげなく」の連発は、虚を突かれてよろめいた姿勢を強引に立て直した、といった印象を与えた。会場は大いに沸いた。ライブのおもしろみが出た場面だから、当然の反応だったと思う。

 記録中の「うん。だから、これでもくらえって意識的な文体で書いてるつもりだったの」は、私の記憶にはない。『ねむらない樹』の校正中に追加したものなのだろう。その追加によって発言の意図まで変わるというわけではないようだ。ただ、ここでもやはりライブ感は失われた。「うん」「これでもくらえ」には虚を突かれた感じがない。

 ただ、記録を読んであらためて気付いたことがある。歌の傾向を判断する基準「さりげないか否か」は、この場面より前の穂村の「埠頭で鍵を拾った」評には出てこない。西田と穂村のこの問答中に初めて出てくるのだ。ただおもしろおかしいだけでない、意義のある問答だった。


(つづく)


(2018.8.12 記)

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