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 他に興味を引かれたところなど、思い出した順にいくらか追記する。


     §


 加藤治郎『マイ・ロマンサー』の一首、

1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0


を、今回のシンポジウムの最中に加藤本人が

イチゼロゼロイチ


と音読した。そこで止めて、後は読み上げなかった。

 それで私は初めて気付いた。この歌はそのまま音読すると三十一音をはるかに超過する。字余りどころではない。

 ところが、「二」「恐」をそれぞれ仮名の二字相当、計四字相当として数え、「0」や「1」はそれぞれ無音の一字として数えると、ちょうど定型の三十一文字ということになる。


     §


 同じく『マイ・ロマンサー』の著名な一首、

言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!


はどう音読すればよいか。シンポジウムでの加藤の発言によれば、加藤自身は「言葉ではない」の後に一拍置いて「ラン」、と読むそうだ。

 この歌が空白一字分も含め三十一文字で表記されていることは、歌集刊行時から指摘されていたと記憶する。しかし、「言」を仮名の二字相当として数えると、全体では字余りの三十二字相当になってしまう。


     §


 これらの歌はみなモニターに表示させて作ったのか、と荻原裕幸が加藤に尋ねた。加藤の回答はイエス。それを受けて荻原が言うには、『あるまじろん』のこれも著名な、

▼▼雨カ▼▼コレ▼▼▼何ダコレ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼BOMB!

(引用者注—本来、縦書表記を前提にした歌。「▼」は当然下向きに連なって、その記号の形自体が爆弾の落下を想起させる。)


などを、荻原は当初、横書き一行分のモニターしか付いていないワープロ専用機に入力したそうだ。その一行は二十字ほどであったはずで、つまり一首の歌の全体を表示することはできない。そこで荻原は、紙に印刷して表記の効果を確かめるということを幾度も繰り返し、ようやく歌を完成させたという。

 興味深い証言だと思う。九十年代の初めのころ、加藤と荻原の歌をひとまとめに「記号短歌」などと呼ぶ向きもいたが、この両者の歌における「記号」の働き具合は実は対照的だったのではないか。

 荻原の歌の「▼」は落下物をかたどったアイコンとして機能する。手間のかかるその入力の作業の間も作者の頭脳は休みなく動き続け、元々は無意味だった記号に様々な意味を付与してやまなかったのだろう。歌の題材が重大事であるにも関わらず、「▼」はどこか手作業のぬくもりと懐かしさを感じさせるようだ。

 一方、加藤の歌の「!」には特に意味がない。「1001」や「10100」はもちろんコンピューター用の二進数を模した表現だが、こちらも作中では意味を成さない。入力の簡単さがその無意味な表現を可能にしたのだと思う。

 「1001」の歌は、意味のある私という存在(二人のふるい恐怖をかたり)が無意味なもの(1と0)に侵食されていく。しかし、意味とは何だろう? 私とは?

 シンポジウムの資料として事前に配付された大辻隆弘「ニューウェーブ、やや回顧的に」によれば、『マイ・ロマンサー』の主題は「私の深化」だった。「1001」の歌に私はその典型を見る。


     §


 大辻の「ニューウェーブ、やや回顧的に」は、私がこれまでに読んだニューウェーブ論の中で最も説得力のある文章だと思う。

 三輪晃「ニューウェーブが指向したもの」は今回のシンポジウムのための新稿で、これがウェブ上ならニューウェーブに関する「まとめサイト」といったところだが、惜しいことに「ニューウェーブ、やや回顧的に」を紹介していない。そのため、「主体」についての三輪の理解は幾分浅く感じられる。


(2018.6.15 記)

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コメント
252
シンポジウムの詳細なレポート、興味深く拝読しました。大辻さんの論は「レ・パピエ・シアン」2003年5月号に載ったものですね。

僕が短歌を始めたのは1996年で、ニューウェーブが非常に元気だった頃でした。2001年11月には僕と川本千栄で「ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する~俵万智・加藤治郎・荻原裕幸・水原紫苑・穂村弘~」という冊子(A5判112頁)を出したこともあります。

「角川短歌」2002年12月号に僕が「もうニューウェーブはいらない」という文章を書き、大辻さんが「未来」2003年2月号で「松村発言を否定する」という時評を書いて・・・といったやり取りがあったことを懐かしく思い出しました。

253
大辻さんの論考の冒頭は松村さんの引用から始まっていますね。いやほんと、すみません、「もうニューウェーブはいらない」(思い切ったタイトル!)を再読しないままこの記事を書いてしまいました。角川短歌の時評?は毎号読んでいたはずですが、2001年頃は私がもう完全にニューウェーブへの関心を失った後で、「もうニューウェーブはいらない」も記憶に残っていません。近いうちに図書館であらためて拝読するつもりです。

『ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する』の存在は今まで知りませんでした。残部があれば購入したいのですが、ないでしょうか。いろいろ読んでいないので、今回の記事では「私がこれまでに読んだニューウェーブ論の中で」と限定を付けたわけです。

私は初めて買った歌集が『サラダ記念日』で、その次が『シンジケート』、さらに辰巳泰子『紅い花』、『マイ・ロマンサー』と続き、どれも刊行から間もない時期に読みました。啄木や茂吉、塚本を読む前にライト・バースとニューウェーブに出会っていて、それがつまり短歌との出会いなんです。

加藤さんも穂村さんもその後、作風が変わりました。どの時期にこの二人の歌を知ったかで、印象も少し変わるかもしれませんね。

254
りがとうございました。
大辻です。ありがとうございます。流れとしては、松村さんの言うとおりで、①「もうニューウェーブはいらない」(松村・角川2002・12)→②「松村発言を否定する」(大辻「未来」2003年2月→『時の基底』再録)→③「ニューウェーブ、やや回顧的に」(大辻「パピエ・シアン」2003年5月)という流れです。2003年頃はすでに「ポスト・ニューウェーブ」という事が言われ始めていて、「パピエ・シアン」の特集もその流れに載ったものでした。88~91年、92~96年、97~01年と、私としては4年くらいのスパンで時代の状況が変わったように思います。

255
大辻さん、思いがけずコメントをいただき、感謝いたします。この地味なブログを覗いてくださって光栄です。「ニューウェーブ、やや回顧的に」の『マイ・ロマンサー』に関する所、たいへん説得されました。

私が熱心にニューウェーブを追っていたのは『昏睡のパラダイス』くらいまでなので、コメントの①〜③のころは知識がすっぽり抜けていて、これまで知りませんでした。『時の基底』も未読なので、探して拝読します。(大辻さんの他の本は数冊持っているのですが)

四年ごとに時代状況が変わった、との説はおもしろそうですね。どこかにお書きになっているでしょうか。内容をくわしく知りたいです。

256
わたしの視点からみた「ニューウェーブ小史」のようなものをパピエシアンⅡに書いたことがあります。またおおくりしますね。

257
大辻さん、ご教示ありがとうございます。購入しますので、よろしければ号数と申込先をお教えくださいませんか。非公開コメント、もしくはメールでも結構です。

申し遅れましたが私は藤井常世創刊の「笛」所属で、先日のシンポジウムの名簿では一番右上に載っています。

258
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます

259
『ニューウェーブ世代の歌人たちを検証する』は、残念ながらもう残っていません。冊子と言っても自分たちで簡易製本したものです。

「基本的歌権」の話、「歌壇」7月号の斉藤斎藤さんのインタビュー(聞き手:佐佐木定綱)の最後の方にも出てきます。

経緯を十分に把握していないのですが、高柳蕗子さんの評論集『短歌の生命反応』(2002)の内容とも近い感じがしました。

「例えば魚の解剖は、その魚がおいしいかどうか知るためのものではない。良い魚か悪い魚かを見極めたいのでもない。目的は体の仕組みを知ることだ。」
「私は共感をあきらめる。私は評価しない。そのかわり、いろいろな短歌に感じる違和感や「おかしなところ」を、いわば生命反応の一部と捉えてみて、それが成り立つためにはどのような生命の仕組みがそこに成立しているかを推理する、という方法を試してみようと思う。」

どうですかね。
ちょっと違うかもしれませんが、参考までに。

260
『ニューウェーブ・・・検証する』の件、残念です。いずれどこかで拝読する機会もあるでしょう。それまで楽しみに取っておきます。

『歌壇』7月号をまだ見ていませんが、斉藤さんが「基本的歌権」という言葉を使っていたとすると、穂村さんの造語ではないのかもしれませんね。

高柳さんの本も未読です。たしかに「基本的歌権」に近い内容です。そして、高柳さんの方がもっとずっと考え抜かれている印象で、ちょっと説得されそうです。本を探して読んでみます!

261
「基本的歌権」は穂村さんの命名で、もうすぐ出る「心の花」120周年記念号(2018年7月号)に載る座談会で穂村さんが語っているとのことです。

高柳蕗子さんの本は、刊行当時、驚きつつ読みました。歌の分析はするけれど良い悪いの評価はしないという基本的な考え方に基づいて書かれています。

262
やはり穂村さんの命名ですか。命名好きの人ですよね、穂村さん。

基本的歌権については高柳さんにもう一度何か発言してもらった方がいいような気がします。ブログ記事にも書いた通り、マイナス評価が無効なら、プラス評価も無効になるはずなんです。でも、シンポのやり取りからは、それほどの覚悟は感じられなかった。どうなんでしょうね。「褒めるのはいいよ」ということなら都合よすぎます。

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