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(今後の議論に向けて)

 今回のシンポジウムには、議論のテーマになり得る話題が二つあったと思う。一つは、

 ニューウェーブに女性歌人が含まれるのか
 もし含まれないとしたら、それはなぜか


 これについては、やはり現象と運動を分けて考えるのがよいと思う。

 千葉の質問の射程は、現象としてのニューウェーブにとどまっていた。これまで(ことに90年代当時は)誰も女性歌人を「ニューウェーブ」として取り上げなかった、というのが荻原や穂村の回答だった。荻原・加藤・西田・穂村らの意図を超えた現象の話だから、それを四人の問題として取り上げることは一応できない。

 他方、女性歌人と運動としてのニューウェーブの関係については回答がなかった。こちらは意識的な運動の話だから、まずはその運動に参加した荻原・加藤・穂村の問題だろう。もしその運動としてのニューウェーブにも女性歌人が含まれていなかったとすれば、なぜ参加を求めなかったのか、と三人に対して問うことはできるかもしれない。

 なお、荻原・加藤・穂村の発言の端々から一面的な女性理解が窺われるのは、いささか気になった。加藤の不用意さにはすでに触れたが、荻原にも同様の発言があった。「常にそういう集団性は、短歌史的には男性の歌人のものなんです」というが、それは単にアララギとその支流がそうだったというだけだ。また、その短歌史の認識がもとになっているとはいえ、「ニューウェーブという括りをした瞬間に女性歌人は排除される」とするのも乱暴な感じがする。そもそも、「括りをした」責任の一端は荻原自身にもあるのだから、「排除される」などという他人事のような言い方はない。

 穂村が「そういうことをいつも男たちはする」という「彼女」の言葉を紹介するとき、穂村は「彼女」に共鳴し、男たちのニューウェーブを相対化しようとしている。しかし、穂村は彼女が女性の一人であって、女性全般でないことには言及しない。

 「この人たちが五人で並んでるところ、想像できない」というのは議論のすり替えのように感じられる。その女性五人が一つの運動をともにすることは想像できないかもしれないが、だからと言って女性が運動に不向きだと言えないことは当然だ。事実、東はニューウェーブの一員として認められなかったことを残念がっていた。

 穂村の今回の発言には独特の、偏った女性観が表れていたと思う。穂村は以前も、「男性が構築した株式と法律と自動車とコンピュータの世界に対する違和感」と女性の「妖精性」への憧れを語り、

 僕は(略)そういう女性が突拍子もない世界のカギを持っていると考えていて、そして、そっちに真実があるという発想だから。


と言っていた(山田航との共著『世界中が夕焼け:穂村弘の短歌の秘密』新潮社、2012年)。しかし、妖精と呼ばれて喜ばない女性もいるだろう。

 そして、議論のテーマになり得る話題のもう一つは、

 ニューウェーブの歌人は荻原・加藤・西田・穂村の四人だけなのか


 これについて実証的に研究することは、もちろん無意味ではない。しかし、最も重要なのは、荻原・加藤・穂村の三人がそう自認しているという事実ではないか。彼らの発言の当否を論じるよりも、今回彼らがそう発言したこと自体をニューウェーブ論のための一資料として扱う方が一層生産的だと私は思う。


(つづく)


(2018.6.8 記)

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