東の問いかけに、まず加藤が答えた。
加藤 女性というとまたややこしくなりそうなんですけど、私はむしろ、女性歌人はそういった括りの中には入らなくて、もっと自由に空を駆けてゆくような存在だと考えていて(会場笑)、つまり葛原妙子や山中智恵子を前衛短歌に入れる必要はないし、早坂類をニューウェーブの中に閉じ込める必要は全くないと思っています。
東 要するに今いらっしゃる四人でニューウェーブが完成されている……(会場笑)ということでよろしいんでしょうか。
加藤 はい、それはもう、四人……(会場笑)
東 では、加藤さんとしては、今日の「ニューウェーブ30年」は四人の作品を考える集まり、だと……
加藤 はい……はい……そうですね……
東 でも、それは多分一人一人捉え方が違うのかな、と思うんですけど……
加藤 そこは今後の議論の、ポイントですね。(会場笑)
荻原 今後じゃなくて、今でいいんですけどね。(会場笑)
この辺りになると、私も周囲の人たちと一緒になって笑ってしまい、ほとんどメモを取るどころではなかった。そのため、会の後、矢場とんの店内でみそかつを待つ間に急いで記憶をたどらなければならなかった。それでも、やり取りの重要な部分は書き落としていないだろうと思う。
女性歌人が「自由に空を駆けてゆくような存在だ」というのは不用意な発言のように思える。しかし、ニューウェーブの中に入る女性歌人はいないか、という千葉の質問がシンポジウム以前に公開されていたわけだから、「入らない」という回答自体は事前に用意されたものにちがいない。
それに続く東の第二の問いかけが不思議だ。ニューウェーブの中に女性歌人が入らないということと「四人でニューウェーブが完成されている」ということは、直接はつながらない。ところが、論理に飛躍のあるこの発言を加藤はそのまま肯定してしまうのだ。東の言葉の勢いに気圧されたのだろうか。
おそらくそうではない。これこそ荻原・加藤・穂村に共通の認識なのだ。その認識を提示させた東の問いかけはまるで一つの奇跡のようだった。加藤に代わり、穂村は次のように答えた。
穂村 ここで言っているニューウェーブって、先に荻原さんの新聞記事発の定義があったんでしょ? それで、そこに推された人たちが偶然性に乗って……。だから、その質問は何となくニューウェーブの定義返しみたいなところがあると思うんだけど。今名前が出た一人一人の女性の価値評価に関しては、僕、すごく論じてるよね。でも、じゃあそれをニューウェーブと呼びましょう、と僕らの間で言っても、今までの歴史的な経緯があるから、それは変になるんじゃないの?
東 ニューウェーブという概念の定義がだいぶ違うんだな、ということを認識したのが今日の大きな「収穫」かなと思います。ニューウェーブっていうのは、時代の全体運動のように私は捉えていたんですけれど、それはもっと狭いものとして捉えた方が……
穂村 東さんのおっしゃってるのは、さっきから話題になっていたライト・バースに近いですね。そこには林さんとか、紀野さんとかが入っていたわけで……ほかの人たちは時代が後だから入ってないけど。文体は紀野さんが文語で、仙波龍英さんとかも文語だけど、ライト・バースと呼ばれていたんですよね。
穂村は女性歌人とニューウェーブの関係について話しつつ、結局加藤の「四人」説を補強しているのだろう。千葉の質問に誘導されて、内容4の荻原は話題を女性歌人に限定していたが、あの回答の真意はここでの穂村の発言に近かったのかもしれないと思う。実際、この穂村発言の後、荻原は「ニューウェーブって、すごく狭い視野だっていうことを意識してもらった方がいいのかもしれない」と言い、加藤・穂村の発言を肯定した。それを結論のようにして、今回のシンポジウムは終了した。
この内容5の間、西田は一言も発しなかった。自分をニューウェーブと思ったことはないという西田は、ニューウェーブの範囲をめぐる話題には関心を持てなかったのだろう。
(つづく)
(2018.6.6 記)