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 2018年6月2日(土)、栄ガスビル(名古屋)にて。登壇者(壇はなかったが)は荻原裕幸・加藤治郎・西田政史・穂村弘。宣伝チラシのタイトルは「現代短歌シンポジウム ニューウェーブ30年」。テーマは、

ニューウェーブは、何を企てたか


 3月半ばに告知があって早々に参加を申し込んだものの、前日まで出掛けるのを億劫に感じていた。熱烈な信奉者を大勢集めてニューウェーブを自画自賛する、予定調和の会になりそうな気がしていた。昼にしら河のひつまぶし、夜に矢場とん本店のみそかつを一人で食べることに決めて、それを楽しみに何とか会場にたどり着いた感じ。

 結果は、予想と全然違った。短歌の世界で、これほど刺激的で有意義だったシンポジウムを私は知らない。会場で取ったメモをもとに、この会の概要を私なりにまとめておく。なお、会場での発言の再現も私のメモによるので、一字一句正確なものではない。


     §


(会の形)

 形式としては「公開座談会」だった。シンポジウムと銘打っていたが、一人一人のまとまった報告はなかった。パネルディスカッションと呼べるほど明確に四人の立場の違いを打ち出すわけでもなかった。


(時間配分)

 前半は四人による総論的な座談で、司会担当は加藤。休憩をはさんで後半は、あらかじめ受け付けていた質問に対する四人それぞれの回答。司会担当は荻原。


(内容1)

 西田が「自分のことをニューウェーブと思ったことはない。今日の会に出るのも、最初は嫌だった」という意味のことを言った。会が始まってすぐに発せられたこの西田の言葉が自画自賛の流れを断ち切った。そして、その影響は会の最後まで継続した。この会の方向性を決定付けた重要な発言だった。

 会は加藤の司会で始まった。「ニューウェーブ」の項が1999年版『岩波現代短歌辞典』にはあるが、2000年の三省堂版『現代短歌大事典』にはないという。加藤は「今から考えると、信じられないですよね」というようなことを言った。荻原・加藤・穂村は岩波版の方の編集委員だったが、加藤の発言を受けた荻原が岩波版でも「ニューウェーブ」の立項には異論があったことを暴露した。他の編集委員の無理解を印象付けることを意図した発言で、ここまでは自画自賛が濃厚に感じられた。

 そこに西田の発言があり、穂村がその「ニューウェーブ」の捉え方に賛同した。西田と穂村の発言をまとめると、

・ニューウェーブは共通の方法意識をもった運動ではなく、結果としてそう見える「現象」だった。

・ニューウェーブという用語の初出とされる荻原の朝日新聞(1991年7月23日付)のコラムにしても、単に新しい動きという意味でその言葉を使ったに過ぎない。

・ところが、歌壇がこれをかつての「前衛短歌」のような自覚的な運動の名称として誤認した。穂村によれば、その誤認は穂村たちの歌を流布させるのに「都合がよかった」。


 これらの意見に、加藤と荻原も同意した。


(内容2)

 「場のニューウェーブ」をめぐる四人の発言から、加藤と荻原がニューウェーブを「現象」から「運動」に発展させていったさまが浮かび上がった。

 事前に大井学が次のような質問を出していた。

 いわゆる「ニューウェーブ」の特徴の一つが、新しい「場」を作ったことだという印象があります。(略)ニューウェーブの皆さんには、既に90年代には歌壇的な作品発表の場や、機会が相応にあったはずですが、なぜ、こうした新しい「場」を開拓していったのでしょうか。その時の皆さんの「思い」(それぞれの関与の仕方なども含めて)を教えていただければと、思っています。


 これに対して、加藤が「場のニューウェーブ」という言葉を使って、「エスツー・プロジェクト」や「歌の葉」の活動の流れを説明した。荻原は、

・加藤が「若い人が作品をまとめて発表できる場がない」と言い、荻原が「じゃあそういう場を作りますか」と応じたところからそうした活動が始まった。

・穂村を誘って活動に参加してもらったが、常に穂村は積極的ではなかった。


ということを明らかにした。穂村も「自分から何かをしたことはない」と明確に認めた。西田は「その時代のことは全く知らない」と言った。

 配付資料の一つ、荻原と加藤の対談記録「場のニューウェーブ」(『未来』2001年7月)を見ると、荻原は次のように発言していた。

 SS-PROJECTは、私見を端的に言ってしまえば、ニューウェーブの文学運動です。短歌を核に据えた、新しいコミュニケーションスタイルを模索する運動です。結成以後三年ですが、加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸が、作品レベルで個々に展開していた文体・方法での「ニューウェーブ」を、場のレベルで実践してきたんじゃないでしょうか。


 ニューウェーブは元々は「作品レベルで個々に展開していた文体・方法」の呼び名だったが、それを加藤と荻原が「文学運動」に発展させたと見てよいようだ。


(内容3)

 穂村がニューウェーブの集団性に疑問を提出した。

 穂村 水原紫苑としゃべってると「ニューウェーブって何?」とか言われるの。俵さんがいればいいじゃんって。……どう思う、これ。(会場爆笑)そうだねって僕、言うしかなかった。それでね、「いつもあんたたちはそうなんだよ」みたいに言うんだけど、そのいつもの例として彼女が挙げたのはね、「晶子がいればそれでよかったのに、その後で男たちが晶子の開いた扉を通っただけなのに自分たちが開いたように言う。そういうことをいつも男たちはする」って。


 穂村の語りは間の取り方が絶妙で、それが会場を爆笑させたわけだが、発言内容自体は重要な問題提起を含んでいると感じられた。そして、穂村は次のように話を続けた。

 穂村 彼女は別に僕ら個々を否定してるわけじゃなくて、ニューウェーブっていう集団性が多分嫌なんだと思うんだよね。


 水原紫苑の真意は想像するしかない。ただ、穂村がここで水原の言葉を借りて言おうとしたのは、詩人が徒党を組むことによって詩から遠ざかってしまう危うさではなかろうか。しかし、それを認めれば、文学運動としてのニューウェーブの意義が否定されかねない。司会役の荻原(会は後半に入っていた)が「大事な問題なので後に回しましょう」などと言って話題を変えたのは、座談を空中分解させないためには致し方ないことだったと思う。

 だが穂村の発言は、実は裏にもう一つ、別の問題提起をひそませていた。女性歌人とニューウェーブをめぐる問題である。今回のシンポジウムの山場は、この後に出現することになる。


(つづく)


(2018.6.3 記)

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