最新の頁   »   短歌一般  »  文語を識別する浅野基準について(3)
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 「数値からみる『サラダ記念日』」は、

 形態素解析など計量的手法を活用した検証を行う。


と宣言していた。文語を識別する浅野基準は「形態素解析」の結果をもとに作成したものと思われる。私は言語学を知らないので、形態素解析という用語自体を聞いたことがなかった。だからこの「計量的手法」に関わる問題かどうかは分からないが、浅野基準は、ある言葉を使用しない、という現象に注意を払わない。たとえば、浅野の調査で『サラダ記念日』より文語の使用率が低いとされている穂村弘『シンジケート』に、

台風の来るを喜ぶ不精髭小便のみが色濃く熱し


という一首がある。「来ることを」などとあるべきところを「来るを」とするのは、「古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない」規則に従っているという意味で紛う方なき文語だが、浅野基準ではこれを文語に数えることができない(もっとも、この歌の場合は「熱し」が条件(4)に該当するから、浅野の調査でも文語の歌として数えることになる)。

泣きながら試験管振れば紫の水透明に変わる六月


 同じく『シンジケート』より(以下も同じ)。助詞を使用せずに「水」という主語を出す言い回しは古典にならったもののように見えるが、浅野基準ではこれも文語に数えない。主語に助詞を付けない例は『シンジケート』に少なからずあり、それらを文語に数えれば、文語の使用率の値は跳ね上がる。

 なお言えば、助詞を使用せずに「試験管」という目的語を出す言い回しも古典和歌や近代短歌にならった文語の一種と見なせるかもしれない。『シンジケート』にはこのように目的語に助詞を付けない例も多数ある。

 ただし、この「水透明に」や「試験管振れば」を文語に認定する作業が簡単ではないことも確かだ。

街じゅうののら犬のせた観覧車あおいおそらをしずかにめぐる


 この「観覧車」を「めぐる」の主語と取れば、主語に助詞を付けない一例になる。だが、もしかすると「街じゅうののら犬のせた観覧車——。あおいおそらを……」なのかもしれない。

「唾と唾混ぜたい?夜のガレージのジャッキであげた車の下で」


 助詞を使用せずに「唾」という目的語を出しているが、これはもちろん形式張らない現代の話し言葉を再現したものだろう。鍵括弧の中にこの語法がある場合は、そのように解する方がよいようだ。だが、鍵括弧がない場合は、それが伝統短歌風の文語なのか現代の話し言葉なのかを、どうやって見分ければよいのか。その判断の基準を明快に示すのは難しい。誤認が一定数あることを受け入れつつ、全てを文語に数えるか、あるいは全てを文語に数えないかのどちらかにするのがよいのかもしれない。

 浅野基準が「水透明に」や「試験管振れば」を文語に数えないことは、『Tri』6号の浅野の論考ではやはり有効だったと思う。文語の使用率の高い歌人の場合、そのような語法の例は枚挙にいとまがないほど多くなると予想される。しかし、それらを文語に数えても、文語の使用率の値が100%に達してしまったら、それ以上は増えない。対して、穂村の場合は上に述べた通りだ。それらを文語に数えれば、穂村と他の歌人の文語の使用率の差が縮まり、他の歌人に比べ文語の用言や助動詞の使用が少ないという穂村の特徴が幾分見えにくくなっていただろう。

 一方、『シンジケート』と今日の二十代歌人の歌集とを比較する際には、試みに「水透明に」や「試験管振れば」を文語に数えることを私は提案したい。そこに明確な差が見えるかもしれないと思うのだ。


(2018.5.21 記)

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コメント
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お初にお目にかかります、「数値からみる『サラダ記念日』」を書いた浅野大輝と申します。
この度は拙稿について考察くださり、本当にありがとうございます。
(1)〜(3)と読ませていただいたのですが、改めて気付かされる点が多く、とても参考になりました。

特に用言の活用の音便化だけでなく用言自体およびその活用についての項目や、あるべき名詞の欠落(「来るを」における”こと”など)についての項目は必要性が高いと、私自身感じました。
一方で、「思うので」という意で使用される「思えば」などの「ば」や、あるべき助詞の欠落(「水透明に」における(おそらくは)”が”、「試験管振れば」における(おそらくは)”を”、など)については、現代でも利用頻度の比較的高い言葉遣いであるようにも思え、個人的にはグレーゾーンという感覚もしました。
後者についても基準としては提案し、どの項目を利用して文語とみなすか(どの程度の厳格さで文語を定義するか)は基準の利用者が決定できるような余地を残す、という方法もできるかもしれないと、少し考えております。

いただいたご意見をもとにまた研究してみたいと思います。
本当にありがとうございました。

251
浅野さん、はじめまして。コメントありがとうございます。

「Tri」全号拝読し、たいへん刺激を受けました。とくに5号の「論争の拡散と消失」はよくまとまった内容で、私など、とても勉強になりました。

今回のブログ記事は、直接的には浅野さんの「ご活用ください」というツイートに対する感想です。さまざまな条件を「提案し、どの項目を利用して文語とみなすか(どの程度の厳格さで文語を定義するか)は基準の利用者が決定できるような余地を残す」という方法はおもしろく、これこそ有用かもしれないという気がします。浅野さんのコメントで、私の拙い記事も生かされたように思われて、率直にうれしいです。ぜひ研究を継続していただけたらと思います。

「水透明に」や「試験管振れば」の語法は少し前から気になっていて、『シンジケート』がやや古めかしく感じられる理由の一つかな・・・などと考えておりましたので、記事の中で取り上げてみました。これについては『シンジケート』研究の一環として、引き続き考えていこうと思っています。

機会があれば、これからもどうぞ議論をしましょう。よろしくお願い申し上げます。


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