拙い感想の結論から先に言えば、浅野基準は『Tri』6号の浅野の論考では有効だと思う。しかし、調査対象が変われば、この基準が機能しない可能性もありそうだ。
理由は基準の精度だ。浅野自身が認めるとおり、この基準は必ずしも「厳密ではない」。まず気になるのは、明らかに「古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない」文語であるにも関わらず、基準から漏れてしまうものがあることだ。『サラダ記念日』を見ると、
の「欲し」は、用言を対象とする条件(4)に当てはまらない。
の「新調す」もまた条件(4)に当てはまらず、
の「閉ずれ」「聞こゆ」もしかり。要するにシク活用の形容詞の終止形、サ行変格活用の動詞の終止形、上二段活用や下二段活用の動詞の終止形、已然形などは、浅野基準では文語に数えられないわけだ。
次に、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの語義が失われている言葉、も気になる。古典と同じ語義でもって使用されていれば、それを文語と見なしてもよさそうな感じがする。だが、「現代の話し言葉で一般に使用されない」ことを文語の必要条件とする浅野基準からは、やはり漏れてしまうようだ。一例を挙げれば、助詞の「ば」だ。同じく『サラダ記念日」に、
という歌がある。「鳴り続ける電話のベルよ、不在の事実も君について知る手がかりの一つと思うので、そのベルの音を愛おしんで聴くのだ」というほどの意味だろうから、第四句の「ば」はいわゆる原因・理由を表す「ば」。予備校生になじみの用法でもって使用されたこの「ば」が、助詞を対象とする条件(2)に当てはまらない。
ちなみに、条件(2)が例示する助詞「ぞ」は、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの用法が失われている言葉、だろう。しかし、条件(2)はこれを単に「現代の話し言葉で一般に使用されない助詞」と見なしている。
さて、『サラダ記念日』では、ここに挙げたような言葉の用例はごく少数にとどまる。仮にそれを文語に数えるとしたら、文語の使用率が高い歌人の場合、その使用率がさらに上がると予想される。俵万智の文語の使用率が同時期の他の歌人よりも相当低いとの結論は変わらない。ならば、基準の精度をそこまで高める必要もなく、浅野基準はむしろ簡潔で利用しやすい。
しかし、比較対象を2018年の二十代歌人にするときはどうだろう。厳密な基準に比べ、浅野基準は俵万智の文語の使用率を低く見積もる。一方、そもそも「欲し」も「閉ずれ」も使用しない口語派の歌人の場合は、基準をどう取っても文語の使用率の値は変わらない。浅野基準では、両者の文語の使用率の差がいくらか小さく見えてしまうのではないか。
(2018.5.18 記)
末尾の部分を少し書き換えました。
(2018.5.19 追記)
理由は基準の精度だ。浅野自身が認めるとおり、この基準は必ずしも「厳密ではない」。まず気になるのは、明らかに「古典語の特徴があり現代の話し言葉で一般に使用されない」文語であるにも関わらず、基準から漏れてしまうものがあることだ。『サラダ記念日』を見ると、
落ちてきた雨を見上げてそのままの形でふいに、唇が欲し
の「欲し」は、用言を対象とする条件(4)に当てはまらない。
消しゴムを八十円で新調す 時計のベルト変えて二学期
の「新調す」もまた条件(4)に当てはまらず、
ふるさとに住む決意して眼閉ずればクライクライとこっそり聞こゆ
の「閉ずれ」「聞こゆ」もしかり。要するにシク活用の形容詞の終止形、サ行変格活用の動詞の終止形、上二段活用や下二段活用の動詞の終止形、已然形などは、浅野基準では文語に数えられないわけだ。
次に、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの語義が失われている言葉、も気になる。古典と同じ語義でもって使用されていれば、それを文語と見なしてもよさそうな感じがする。だが、「現代の話し言葉で一般に使用されない」ことを文語の必要条件とする浅野基準からは、やはり漏れてしまうようだ。一例を挙げれば、助詞の「ば」だ。同じく『サラダ記念日」に、
鳴り続くベルよ不在も手がかりの一つと思えばいとおしみ聴く
という歌がある。「鳴り続ける電話のベルよ、不在の事実も君について知る手がかりの一つと思うので、そのベルの音を愛おしんで聴くのだ」というほどの意味だろうから、第四句の「ば」はいわゆる原因・理由を表す「ば」。予備校生になじみの用法でもって使用されたこの「ば」が、助詞を対象とする条件(2)に当てはまらない。
ちなみに、条件(2)が例示する助詞「ぞ」は、現代の話し言葉で一般に使用されるものの古典で使用されていたときの用法が失われている言葉、だろう。しかし、条件(2)はこれを単に「現代の話し言葉で一般に使用されない助詞」と見なしている。
さて、『サラダ記念日』では、ここに挙げたような言葉の用例はごく少数にとどまる。仮にそれを文語に数えるとしたら、文語の使用率が高い歌人の場合、その使用率がさらに上がると予想される。俵万智の文語の使用率が同時期の他の歌人よりも相当低いとの結論は変わらない。ならば、基準の精度をそこまで高める必要もなく、浅野基準はむしろ簡潔で利用しやすい。
しかし、比較対象を2018年の二十代歌人にするときはどうだろう。厳密な基準に比べ、浅野基準は俵万智の文語の使用率を低く見積もる。一方、そもそも「欲し」も「閉ずれ」も使用しない口語派の歌人の場合は、基準をどう取っても文語の使用率の値は変わらない。浅野基準では、両者の文語の使用率の差がいくらか小さく見えてしまうのではないか。
(2018.5.18 記)
末尾の部分を少し書き換えました。
(2018.5.19 追記)
NEXT Entry
NEW Topics