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 東京の京橋で三ヶ月に一度、『菱川善夫著作集』を読む会が開かれていて、私も第一回から参加させてもらっている。今月4日(日)が第四回で、はじめてレポートを担当した。

 そのレポートの内容をブログに残しておこう。会では時間の都合で割愛した資料等も若干追加しておく。テキストは、

 『美と思想:短歌史論』(『菱川善夫著作集』第四巻、沖積舎、2007年)。

 標題に明らかなように、『現代短歌 美と思想』(桜楓社、1972年9月)所収の論考を中心にまとめた巻である。底本は明記されていない。



1 『菱川善夫著作集』第四巻を読む難しさ

 簡単には読み流せない本だと思う。本書を読む難しさをいくつか挙げてみる。


a 参考文献を探して読むこと

 本書にはしばしば、少部数の単行本や同人誌に掲載された歌文への言及がある。ところが、原文を十分に引いてあることは稀であり、ほとんどの場合ははなはだ簡潔な言及にとどまる。そこで、読者としては単行本や同人誌の原本に当たりたくなるのだが、そういった本は図書館や文学館に所蔵が無いことが多く、古書店でも見かけることが少ない。それを一々探していくのは、なかなか骨が折れる。一例を挙げると、「続戦後短歌史論」に、

 たとえばそれをもっとも端的に示したのは、「律」第二号(昭和37・9)における「思想と文体」の特集である。我々はそこに、批評におけるナショナリズムが、もっとも鮮明に刻印されている姿をみることが出来るだろう。(80頁)


などとあるが、『律』第2号を所蔵する図書館・文学館は、私の知るかぎりでは日本現代詩歌文学館しかない。


b 一文の長さ、文体のねじれ

 本書の中心を占める1960年代の論考(もともと『現代短歌 美と思想』に収めていた論考)の文体は、全体的に修辞に凝っている。かつ、一文が長い。その特徴的な文体は読者の心を高揚させる一方で、ときに内容の読み取り方を迷わせる一因にもなっているようだ。

 一般に、一文の主語と述語の間に入れ子状に従属節の主語と述語が入ると、意味が取りにくくなる。ところが、本書の場合、その従属節自体が長かったり、さらに複文だったりする。揚げ句、主節の主語と述語がうまく対応していない例も見受けられる。一例を挙げよう。

 しかしそこにおける強烈な負の意識は、あたかもナショナルなものに流れこんだ浪漫主体が、おのれをとらえた権力との関連を主体的に自覚することができず、国民的真実に正しく参加していると錯覚することによって、歴史と個との主体的契機を創造できなかったごとく、そうしたナショナルなものからきっぱりと自己を拒絶し、ひたすらその拒絶のきびしさにおいて、個の真実を守ろうとした近代個人主義文学の自我観も、また歴史と個との関連を十分創造的に築きあげることにはならなかったということである。(61頁)


 主節は「負の意識は……ということである」、従属節は「ナショナルなものに流れこんだ浪漫主体が……想像できなかった」と「近代個人主義文学の自我観も……にはならなかった」。従属節自体がさらに複文になっていて読みにくい上に、主節の主語と述語がうまく対応していないように思われる。そこで、私は次のように読み替えた。

 (歴史と個との創造的関連を回復できるかどうか、ということに対する塚本邦雄の)負の意識は、「ナショナリズムに合流した浪漫主義文学」のみならず、「ナショナルなものを拒絶することで個の真実を守ろうとした近代個人主義文学」もまた、歴史と個との関連を十分創造的に築きあげることはできなかった、との認識に基づいている。


 しかし、これで問題ないかどうか、確信は持てない。読み替える間に読み間違えている可能性も、当然あるわけだ。


c 一語一語の意味の難解さ

 本書中の1960年代の論考は、使用する一語一語にしばしば特殊な意味を持たせているようだ。あるいは、その各語は当時は一般的だったが、今日ではあまり使用されない評論用語なのかもしれない。私がそういった用語に慣れていないので、読みにくく感じるのかもしれない。たとえば、上の引用文中の「歴史」という語は、本書の頻出用語だが、

人類社会の過去における変遷・興亡のありさま。また、その記録。(『広辞苑』第五版)


といった一般的な意味以上の意味を持っているようだ。私はこれを仮に「政治経済の歴史の大きな流れをいずれは形成することになる、その時々の政治経済の状況」と解した。

 同じく本書の頻出用語である「主体的契機」という語もまた、意味が取りにくい。「契機」はきっかけという意味だから、「主体的契機」は「Xについて主体的にYするきっかけ」という文脈でもって使用して初めて意味を成すはずだ。ところが、本書はこれを一貫して「Xの主体的契機」といった言い回しで使用し、「Yする」を明示しない。

 たとえば、上の引用文では「歴史と個との主体的契機」だ。「歴史と個」というXを示すだけで、「Yする」を示さないのである。私は、「歴史に対して個が個の主体性を保持しながら働きかけ、参加していく契機」といった具合に意味を補って解した。

 しかし、こうした解釈が妥当なのかどうか、やはり確信は持てない。


d 校正ミスの多さ

 『菱川善夫著作集』は一体に誤字や脱字の校正ミスが多く残存している。第四巻も枚挙にいとまがない。そして、そのほとんどが初出や単行本には存在しない、『菱川善夫著作集』だけの誤りだ。一例だけ挙げれば、「続戦後短歌史論」に

 しかもそれは、歴史に限らず、自己自身にむかっても同様である。


という一文があり、初出(『現代短歌 ’66』東京歌人集会、1966年10月1日)と単行本ともにこの通りの表記であるのに、本書では「自身」が「白身」になっている(79頁)。本書の校正ミスの典型例だろう。初出や単行本と比較して正しい字を確認できるから問題ないといえばないが、なかにはそれができない場合もある。本書の「楯としての前衛歌集」末尾の「注1」は初出や単行本にない本書独自の記述だが、そこに

 なお初出では「眼底」の詞者に、背景・後景を意味する(Hintergrund)のドイツ語表記が付せられている。(106頁


という一文がある。この「詞者」は、「詞書」の誤りだろう。本書の入力担当者は著者の手書き原稿の「詞書」をコトバガキと読めず、シショと読んで、しかもそれをシ・シャとタイプミスしたものと想像される。これも誤字であることが明らかだから特に困るわけではない。ただ、読者としては、この入力担当氏は短歌関連の初歩的な知識を持ち合わせていない上にタイプミスも相当多いと判断せざるを得ない。こうなると、本書には読者が一見しただけでは気付かない校正ミスも相当数あるのではないかと心配になってくる。

 なお、入力担当氏のタイプミスではない例も挙げておこう。「戦後短歌史論」の終わり近くに、

 〈痛み〉の内容が、それ自体、自我の裸形をさいなむ形では追究されず、暦といった形式の中に、自己と世界を形向上学的に問いつづける。(66頁)


との一文がある。「形向上」の意味が通じないが、これは初出も初刊の単行本も同じ三字だ。そこで『菱川善夫評論集成』(沖積舎、1990年)を見ると、「形而上」になっている。初出と初刊の単行本の誤字を訂正したものと考えられる。それを本書はまた元の誤字に戻してしまったわけだ。本書が『菱川善夫評論集成』を底本とせず、参照もしていないことは、この箇所から明らかだ。


(2018.2.19 記)

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コメント
237
心配していました。
お久し振りです。どうされたのかと心配していました。ブログ復活で安心しました。

238
以前にもコメントを入れてくださっていたようで、すみません。〆切りというのが苦手で、ブログ更新も気まぐれです。お答えできることについてはお答えしたいですが、少々お待ちください。

239
ありがとうございます。
ブログ復活で本当に安心しました。
以前のコメントへの回答は気の向いたときで結構です。
来週から少し暖かくなるらしいですが、インフルエンザもまだ流行っているようなので、ご自愛ください。

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