最新の頁   »   会津八一  »  善光寺の落書
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加

八月廿九日善光寺詣

本堂の柱に長崎の旧友たれかれ八月廿八日詣るとしるしてありけるに、今は三十年余りの昔ならん、おのれ彼地にとどまりて一つ鍋のもの喰ひて笑ひののしりむつましき人達なり。あはれきのふ参りたらんには、面会してこしかた語りて心なぐさまむものを、互ひに四百余里の道程へだたりぬれば、ふたたび此世には逢ひがたき齢にしあれば、しきりにしたはしくなつかしくなむ、

近づきの楽書みえて秋の暮

 (一茶『文政句帖』)


 一茶は本堂の柱の落書を見て、前日に旧友たちがここを訪れたことを知り、たった一日違いでこの世での再会がかなわなかったことを嘆いた。私見では会津八一の一首、

ふるてらのはしらにのこるたび人の名をよみゆけどしるひともなし

 (『南京新唱』1924年)


は一茶の句をふまえており、その意は「友の名を見て嘆くことすら、自分にはない」というのである。

 8日午後4時半すぎ、長野市の善光寺に「落書きがある」と職員から警察に通報があった。(略)

 善光寺・若麻績信昭寺務総長「信仰に対する冒とくになるので、本当に悲しくもあり、憤りを強く感じる」

 (日テレNEWS24、10月9日19:47配信)


 人の道にも移り変わりがあるとか。今日、落書は信仰に対する……。


(2017.10.10 記)

関連記事
NEXT Entry
太田水穂書簡への付記
NEW Topics
窪田空穂と会津八一(4)
窪田空穂と会津八一(3)
窪田空穂と会津八一(2)
窪田空穂と会津八一(1)
川野芽生「私達が聴かなかった声」メモ
染野太朗「異化について」メモ
瀬戸夏子「デザインの書」メモ
大井学「浜田到の百年」メモ
『ねむらない樹』vol.1を読んで(3)
北村早紀の高島裕批判について
コメント
Trackback
コメントを書く
 管理者にだけ表示を許可する
ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930