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 続いて、について——。山田は、

 もはや文語旧かなは、いかんともしがたい忘却とともに思想としての体系を保つことが出来なくなってしまった。


と言い、

 だから、現実社会を描く方法論としてもはや文語も旧かなも適していない。


と主張する。私にはまず、ある文法・語彙・表記法が「思想としての体系」を持つ、という考え方がよく分からない。したがって、なぜ「思想としての体系」を持たない文法・語彙・表記法では「現実社会を描く」ことができないのか、も分からない。

 ところで、上の二つの引用文には、

 文語という文体、そして旧かなという表記には、かつてはそれを用いる歌人の思想性そのものだった。国家が規定した文体・表記をあえて否定するのだから、そうなるのも当然である。


という前置きが付いている。現代仮名遣いは1946年に内閣によって公布され、初めて国民の間に定着した。まさしく「国家が規定した」表記法と言える。他方、口語体を「国家が規定した」ものと見なすことには違和感がある。たしかに同じ1946年から全ての公用文が口語体で書かれるようになったのだが、民間ではもっと早くからごく普通に口語文が使用されていた。


     §


 前の前の記事に、

 たぶん短歌を読まない人間にとって文語や旧かなは、今や「昔の人の文体」というよりも「中二病の文体」というイメージの方が強いはずだ。


という一文を引いた。本文を読み進めると、後になって、

 特に現実問題として被害者がいるようなセンシティブな事件に取材する場合、自分が現実として巻き込まれた状況が「中二病の文体」で表記される気持ちをしっかり想像した方がいい。


と書いてある。目黒哲朗の歌に対する批判である。

 先の文では、「文語や旧かな」は「中二病の文体」である、などと断定していなかった。「たぶん……というイメージの方が強いはずだ」と、いかにも自信無さそうに推測していただけだ。それを後の文では、あたかも証明済みの定理のように取り扱っている。

 山田は、怪しい論法で自作を批判される歌人の気持ちを「しっかり想像した方がいい」。


(2017.7.19 記)
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