つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ
キスが上手の女なりしが
この歌について、小池は次のようにも述べている。
わが手を見るともなく見ながら、ふっと別れた女を思い出す。この展開は唐突といえば唐突で、連想の飛躍が著しいが、言い換えるとそこには一種の速度感があり、現代的で、啄木の歌のあたらしさがまたあるだろう。(111頁)
(3)に引いた評言よりもこちらの方が重要な指摘だと思う。「わが手」から「別れた女」への展開もまた、私は読み流していた。あらためて読み返すと、たしかに唐突だ。現代の絶え間ない刺激に慣れた身には、その「速度感」が「速度感」として感じられなくなっている、ということか。
明治の読者の中には、「内容がメチャクチャ」「ついていけない」などと感じた人も、あるいはいたのかもしれない。「スピード時代」なる和製ジャズソングがトーキーの主題歌になるのはこの二十年後、昭和に入ってからである。
(2017.7.2 記)
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