最新の頁   »   短歌一般  »  小池光『石川啄木の百首』覚書(2)
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 いまは町角の喫煙所で人々が群がり、めいめい煙を吐き出しているのであるが、たいていは一人で、ものを言う人もいない。(略)私もその一人なのだけれど、そういう場所にあって一本の煙草を吸っているとき、きまって啄木のこの歌が思い出される。(21頁)


 「この歌」とは「空家に入り/煙草のみたることありき/あはれただ一人居たきばかりに」。

 「私もその一人なのだけれど」が小池らしい言い回しだと思う。小池の歌でも文章でも、たいてい自分自身を見つめる目が働いている。自己陶酔に陥ることがなく、他人を見る目に優しさがある。だから、読んでいて嫌な気分になることが少ない。

 他方、その目が物事の奥底を鋭く剔抉するのもまた、小池の書くものの特徴である。

 そうして帰ってきたら、遠くの方が火事であった。燃え上がる炎が遠くに見える。ふと立ち止まってちょっと眺め、また歩きだす。都会生活の分断された人間の孤独をつよく感じさせ、現代の短歌の中にまぎれていても何の違和感もないであろう。(115頁)


 「やや長きキスを交して別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな」に付けたコメント。

 農村の火事は、つまり知り合いの家の火事で、消火を手伝いに走ることになるだろう。ちょっとした町の火事なら、それは知り合いの家の火事とは限らない。しかし、そんなに遠い場所でもないから、手伝いの必要はなくても見物に行くだろう。都市にあっては、もはや見物にも行かない。

 「深夜の街の/遠き火事かな」の素っ気なさは、たしかに異様だ。しかし、都市に暮らしているとこの状態に慣れてしまって、それが異様であることになかなか気付かない。私なども、この「深夜の街の/遠き火事かな」を読み飛ばしていた。小池の文章を読んで初めて気付かされた。


(2017.6.25 記)

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