「ナツカシ(ム)」という語を「過去が思い出されて慕わしい」「過去を慕わしく思う」の意味で使用することが多い『一握の砂』にあって、そうでない例はどのようなものか。そちらも一応見ておくことにしよう。
一行目と二行目が対句の関係にある。「いかめし」という単語自体には懐旧の意が含まれないのだから、「なつかし」に懐旧の意を読み取るのは幾分バランスを欠くようだ。秋は心に思い描く父のように威厳があり、また心に思い描く母のように引きつけるものがある、親のない子にとっては——といったふうに解しておく。
たった七日である。それで「以前が思い返されて好ましい」などと言うのだとしたら、さすがに大仰だろう。この一首のためにも、結句はただ「染みも好ましい」というだけの意味に取っておきたい。
もっとも、この歌の心は懐旧の心に似ているといえば似ている。ある時間見なかった物をいま見て心が引かれるというのである。
「古文書」が何を指すか、諸註の見方が分かれている。岩城之徳はなつかしむ者自身の「古い草稿の類」とし(『啄木歌集全歌評釈』筑摩書房、1985年)、木股知史は「昔に書いた自分の履歴書など」としている(和歌文学大系『一握の砂/黄昏に/収穫』明治書院、2004年)。上田博は「資料となる昔の文書」という辞書通りの見方を挙げている(『石川啄木歌集全歌鑑賞』おうふう、2001年)。
では「吸取紙」は? こちらは諸註の解釈が一致しているようだ。なつかしむ者自身が以前挟んだ吸取紙、と見るのである。その通りであるなら、「なつかしむ」の解釈も一致することになる。この一首は回想詠で、結句は新しい方の意味、つまり「そのころが思い出されて慕わしいことだ」といった意味に取れるわけである。
しかし、どうだろう。古文書が先人の手になる文書で、吸取紙もまた先人の挟んだものと解することも可能なのではないか。この場合、「なつかしむ」を個人的体験の想起に伴う懐旧の表現とは取れず、古い方の意味、つまり「親しみを感じる」というだけの意味に取ることになる。
初出時の下句は「吸取紙ぞ尊かりける」だった。過去に自分がした作業に対して「尊かりける」とは、やや不自然な気がする。先人の仕事の跡への親近感を表すことがこの一首の当初からの主題であったことを窺わせる。
繰り返しになるが、『一握の砂』ではナツカシという語が新しい方の意味で使われることが多い、というのが私見の主旨である。だから、この歌の結句などもその意味で解する方が私にとっては都合がよいわけだが、もう一方の意味である可能性は結局排除できないようだ。
「ナツクサ」と「カ」の音に引かれて「ナツカシカリキ」という結句になったものか。それはともかく、岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』は、
としている。追憶して心が引かれた、のではない。「なつかしかり……」をただ「慕わしい」の意味に取っているのである。ところが、上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』はこれを否定するように、
とし、「なつかしかり……」を「過去が思い出されて慕わしい」の意に解している。また、さらに、
とも述べている。いかにも学者らしく「錯綜」したレトリックだが、要するに「なつかしかり……」では過去が思い出されるさまを表していると解し、そのさま自体もまた末尾の助動詞「き」の働きで過去に分類されると解したものか。
確かに小説や随筆に「昔がしのばれてなつかしかった」といった言い回しが出てくることはあるだろう。日常の会話で同様に言うこともあるだろう。しかし、短歌の表現としてはやや煩瑣な印象を受ける。
わざわざそんなふうに解釈する必要もないのではないか。自然の景物を対象としてナツカシと詠んだ例は同時代の別の歌人の作にも見出せる。
いずれのナツカシも単純に「慕わしい」という意味にちがいない。「汽車の旅」の一首の場合も、夏草の匂いがたいそう心地よかった、というほどの意味に取ればよいのではないか。私は岩城の解釈を支持する。
(2017.5.30 記)
父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に
一行目と二行目が対句の関係にある。「いかめし」という単語自体には懐旧の意が含まれないのだから、「なつかし」に懐旧の意を読み取るのは幾分バランスを欠くようだ。秋は心に思い描く父のように威厳があり、また心に思い描く母のように引きつけるものがある、親のない子にとっては——といったふうに解しておく。
旅七日(たびなのか)
かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし
たった七日である。それで「以前が思い返されて好ましい」などと言うのだとしたら、さすがに大仰だろう。この一首のためにも、結句はただ「染みも好ましい」というだけの意味に取っておきたい。
もっとも、この歌の心は懐旧の心に似ているといえば似ている。ある時間見なかった物をいま見て心が引かれるというのである。
古文書(こもんじょ)のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙をなつかしむかな
「古文書」が何を指すか、諸註の見方が分かれている。岩城之徳はなつかしむ者自身の「古い草稿の類」とし(『啄木歌集全歌評釈』筑摩書房、1985年)、木股知史は「昔に書いた自分の履歴書など」としている(和歌文学大系『一握の砂/黄昏に/収穫』明治書院、2004年)。上田博は「資料となる昔の文書」という辞書通りの見方を挙げている(『石川啄木歌集全歌鑑賞』おうふう、2001年)。
では「吸取紙」は? こちらは諸註の解釈が一致しているようだ。なつかしむ者自身が以前挟んだ吸取紙、と見るのである。その通りであるなら、「なつかしむ」の解釈も一致することになる。この一首は回想詠で、結句は新しい方の意味、つまり「そのころが思い出されて慕わしいことだ」といった意味に取れるわけである。
しかし、どうだろう。古文書が先人の手になる文書で、吸取紙もまた先人の挟んだものと解することも可能なのではないか。この場合、「なつかしむ」を個人的体験の想起に伴う懐旧の表現とは取れず、古い方の意味、つまり「親しみを感じる」というだけの意味に取ることになる。
初出時の下句は「吸取紙ぞ尊かりける」だった。過去に自分がした作業に対して「尊かりける」とは、やや不自然な気がする。先人の仕事の跡への親近感を表すことがこの一首の当初からの主題であったことを窺わせる。
繰り返しになるが、『一握の砂』ではナツカシという語が新しい方の意味で使われることが多い、というのが私見の主旨である。だから、この歌の結句などもその意味で解する方が私にとっては都合がよいわけだが、もう一方の意味である可能性は結局排除できないようだ。
汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき
「ナツクサ」と「カ」の音に引かれて「ナツカシカリキ」という結句になったものか。それはともかく、岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』は、
「とある野中の停車場の夏草の香」に心がひかれたことを追憶する一首である。
としている。追憶して心が引かれた、のではない。「なつかしかり……」をただ「慕わしい」の意味に取っているのである。ところが、上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』はこれを否定するように、
「夏草の香」をなつかしんだ、そのおりの気分には「ふるさとの停車場路」(略)の土の匂いが含まれていたか。
とし、「なつかしかり……」を「過去が思い出されて慕わしい」の意に解している。また、さらに、
「なつかしかりき」と場面を回想風に設定しながら、現在の「汽車の旅」に感慨する時間の錯綜を印象づける技巧にも意識内の光景を暗示するのである。
とも述べている。いかにも学者らしく「錯綜」したレトリックだが、要するに「なつかしかり……」では過去が思い出されるさまを表していると解し、そのさま自体もまた末尾の助動詞「き」の働きで過去に分類されると解したものか。
確かに小説や随筆に「昔がしのばれてなつかしかった」といった言い回しが出てくることはあるだろう。日常の会話で同様に言うこともあるだろう。しかし、短歌の表現としてはやや煩瑣な印象を受ける。
わざわざそんなふうに解釈する必要もないのではないか。自然の景物を対象としてナツカシと詠んだ例は同時代の別の歌人の作にも見出せる。
冬の雨。
市街の寺の大木(たいぼく)の、なつかしきかな、
高く立てるは。
土岐善麿『黄昏に』
夏はいまさかりなるべし、とある日の明けゆくそらのなつかしきかな
若山牧水『死か芸術か』
日曜は土のかをりもなつかしや縁にして見る若き草の芽
尾上柴舟『日記の端より』
いずれのナツカシも単純に「慕わしい」という意味にちがいない。「汽車の旅」の一首の場合も、夏草の匂いがたいそう心地よかった、というほどの意味に取ればよいのではないか。私は岩城の解釈を支持する。
(2017.5.30 記)
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