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 若山牧水の歌の言葉「ナツカシ」をどう解するか、という話を以前の記事で取り上げた。この話は牧水の一首に限られるものではない。たとえば、北原白秋『桐の花』(1913年・大正2年)である。『桐の花』には形容詞「ナツカシ」や動詞「ナツカシム」がしばしば出てくるが、その解釈はなかなか難しい。なかには従来の解釈に修正の余地があると思われる例もある。

 試みに『桐の花』の時代、つまり1910年代前半にしぼって、歌語「ナツカシ」の意味を確かめてみよう。


     §


 「ナツカシ(=ナツカシイ)」は、現代では「過去が思い出されて慕わしい」の意味で使用するのが普通だが、元々は単に「慕わしい」という意味だった。

 では、1910年代前半の新派の歌集では? 元々の意味で使うこともあれば、新しい意味で使うこともあったようだ。そうであれば、読者はその都度、どちらの意味かを判断する必要がある。いくらか例を挙げよう。まず、元々の意味の方から。

芝原に黄なる花さく初夏(はつなつ)の物なつかしさ人の恋しさ

  佐佐木信綱『新月』(1912年)


 一首の大意は、芝原に黄色の花が咲く初夏の何となく慕わしいことよ、人の恋しいことよ、といったところか。この下句は対句風になっているが、「恋しさ」に対して「過去の慕わしさ」では釣り合わない。また、「何となく」起こった感情であるから「過去が思い出されて」という理由付けがそぐわない、ということもある。この「なつかしさ」は単なる「慕わしさ」の意味に取るのがよいだろう。

みちのくの雪のひかりを思ふだに阿佐緒の歌は悲しなつかし

  吉井勇(原阿佐緒『涙痕』1913年、「序歌」)


 東北の雪の光を思う歌ですら悲しくも慕わしい、ということか。結句の趣向は、互いに意味のやや食い違うような語を並べるところにあるのだろう。ならば、「悲しい」に対して「慕わしい」が自然だ。

この掌(て)の土とわれのいのちの滅ぶこと、いづれなつかしいづれ悲しき

  若山牧水『死か芸術か』(1912年)


 学校文法的には「なつかしき」とあるべきところかもしれない。それはともかく、形容詞の組み合わせが前の歌と同じだ。各形容詞の意味も前の歌と同様だろう。そもそもこの一首の主旨は哲学風のものであって、懐旧の気分などとは全然関係がない。土が初めから命を持たないことと私の命がやがて尽きることと、どちらが好ましいか、どちらが痛ましいか、というのである。

指をもて遠く辿れば、水いろの、
ヴオルガの河の、
 なつかしきかな。


  土岐哀果『黄昏に』(1912年)


 地図を頼りにまだ見ぬ異郷の地に思いを馳せる歌と読める。そうであれば、この一首は回想の文脈上にないことになる。篠弘は結句「なつかしきかな」を「いい知れぬ親しみが感じられる」と正しく解釈している(『現代短歌鑑賞辞典』東京堂出版、1978年、259頁)。


(続く)


(2017.5.10 記)

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