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 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤独もちてへだたる

    塚本邦雄『装飾楽句』(1956年)



 意味するところが明快な一首のように見えるが、実は鑑賞者によっていろいろな読み方がある。春日井建は大意を

 五月祭に参加して汗を流して行動している青年がいる。輝かしいその行動者に対して、病んでいる私は火のような熱い孤独をもってへだたっている。(『日本名歌集成』学灯社、1988年、492頁)


と取り、

 一方に五月祭の光をおき、他方に病むわれの影をおく対比が鮮明であり、その危うい均衡が張りつめた音律をもたらしている。(同上)


と評した。これに従えば、青年は光のように輝かしい存在であり、賛美の対象となる。まず穏当な読み方と感じる向きが多いのではないか。しかし、これと正反対の読み方もある。篠弘は、

 メーデー行進をつづける汗ばんだ青年像、それに対する嫌悪からはじまっている。見せかけのたくましさや、隊列をくむことのいやらしさを、作者ははげしく言おうとしている。(『現代短歌鑑賞辞典』東京堂出版、1978年、243頁)


と解していた。青年はむしろ嫌悪の対象だというのである。さらに、この二通りの読み方を折衷するような読み方もある。永田和宏は、

 ここで詠われているのは、健康さだけが取り柄のような青年への嫌悪感あるいは侮蔑感と、精神に負の部分、陰の部分を抱えて、彼らからはっきりと自らを峻別するという自負、そして、それゆえにいっそう惹かれざるを得ない「健康な普通」への羨望の思いであろう。(『現代短歌』岩波新書、2014年、55頁)


とした。青年は嫌悪の対象であると同時に羨望の対象でもあるという。

 なぜ、このような読み方の違いが生まれるのだろうか。歌の言葉に即して考えるなら、差し当たり二つのことを指摘できる。

 第一に、体言止めの二句切れとその直後の一字空けについて。これらの修辞法の採用は、「青年」に対しての詠嘆を意図していると取るのが自然だろう。春日井の読み方を否定し去るのは難しい。

 第二に、「われ」の「孤独」を「火のごとき」と形容していることについて。田中槐は、

 〈火のごとき孤独〉と歌うことによって自らにも熱い思いがあるという矜持のようなものが感じられる。(『岩波現代短歌辞典』1999年、652頁)


と述べている。篠や永田は、そのような自恃の裏返しとして「青年への嫌悪感」が読み取れると考えたのかも知れない。

 一首中に青年賛美と自恃が同居するということを、この歌の基本的な解釈とみとめてよさそうだ。それを踏まえてどこまで深読みしようか。


(2017.5.4 記)

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