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 この元将校と葛原妙子の関係について、より具体的に報告したのが結城文『葛原妙子:歌への奔情』(ながらみ書房、1997年)である。

 当時女学生だった長女の葉子もこの地(軽井沢町沓掛—引用者注)に来て、近くの海軍の施設に勤めるようになり、妙子もそこの海軍軍人の一人と面識を持つに至った(略)、「始めは葉子のお相手にいいかと思った。」というのが、晩年妙子が漏らした言葉として伝わっている。(同書130頁)


 長女を通じて海軍技術研究所の職員の一人と面識を持ったという。しかも、それだけではない。結城によれば、葛原の歌集に未収録の、

明日しらぬ命の逢ひや高原の銀河は高し肩の真上に

  (『潮音』1944年11月)


といった歌の「対象がその海軍の施設の軍人だったことは、妙子の歌を読む人々のあいだでは知られている」(同書87頁)。つまり、元将校と葛原は戦時中から親しく交流し、葛原は元将校に思いを寄せていたというのである。

 葛原妙子の伝記研究の資料として、またその作品を解釈するための補助資料として、まことに興味深い。結城の報告の通りだとすると、元将校の話を葛原が知った経緯も具体的に想像できる。「貴ぶ人」という特別な呼び方の意味も理解できる。

 ただし、結城の報告には難点があった。その根拠が葛原の周辺の人々による間接的な証言であって、葛原本人の手記や直話ではないことだ。実際、明らかに事実に反するところもあった。たとえば『潮音』1943年5月号掲載で、歌集には未収録の一首、

から松の芽ぶきやはらに雪代のみづの信濃よわが恋のみに


 結城はこの「恋」の対象も例の将校と解している。しかし、海軍技術研究所が当地に疎開したのは1944年5月のことで(『軽井沢町誌』歴史編、軽井沢町誌刊行委員会、1988年)、それ以前の作品の背景に海軍将校の存在を想定することには無理がある。根拠の弱さとこうした部分的な事実誤認により、結城の報告全体に対する評価も留保せざるを得なかった。


(2017.4.3 記)

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