最新の頁   »   短歌一般  »  松村正直『樺太を訪れた歌人たち』覚書(3)
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 本書の一つの特徴は、引用歌文の内容を論じることが多く、表現を論じることがほとんどないということだ。引用歌文を覗き窓のように見なし、それを通して当時の社会と文化、作者の思想・感情などを覗き見る一方、その窓の形状や性質そのものに目を向けることが少ないのである。

 これはまず仕方のないことだろう。本書の目的が私の推測通り、近代歌人の樺太詠を通して日本の近代化と戦争の影響を見ることにあったとすれば、引用歌文の表現よりも内容に多くの照明を当てるのは自然なことだ。

 「北原白秋・吉植庄亮と海豹島」の段で白秋の紀行文『フレップ・トリップ』の表現に注目していることは、本書中では例外に属する。この段の記述が例外的なものになったのは、この段の主目的が海豹島の自然の有りようを確認することにあったためか。つまり、著者の関心はもともと社会や文化の方に多くあるので、窓の向こうに自然が広がるときにはその自然を見るだけでは物足りず、窓自体を見るようになるのかもしれない。

 それにしても、『フレップ・トリップ』のロッペン鳥の描写、

風だ。
光だ。
 飛ぶ。
  飛ぶ。
   飛ぶ。
 飛ぶ。
  飛ぶ。


と平戸廉吉「飛鳥」の

一羽の後を  一羽
     一羽
    一羽
  一羽
翻転——
  側走——
    旋回——


との「共通性」の指摘は興味深い。後輩詩人の作に学んだ痕跡がここまではっきりと白秋の作品に残っているとは、ちょっと驚いた。ここに引いた『フレップ・トリップ』の一節は、平戸廉吉の詩が詩壇にいかに大きな衝撃を与えたかを窺うに足る資料だろう。


(2017.1.8 記)

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コメント
151
いつもありがとうございます。
「表現を論じることがほとんどない」という点については、以前、『短歌は記憶する』の書評で谷村はるかさんに指摘していただいたことがありました。(「塔」2011年3月号)

***************
しかし本書には気になる点もあった。ひとつは独特の「輪切り手法」に起因すると思われるもの。仁丹を詠んだ歌、ゴルフを詠んだ歌といった通しテーマを優先した結果、一首一首はやや浅い読みで通過しているように見える。

調べものの得意な著者だけに、周辺情報としてこういう事実がある、その事実からたどっていけば歌の読みはこのように確定する、という順序で歌を読む傾向が時々感じられる。歌じしんが発するものをまず感受することも大切ではないかと思う。
***************

これはかなり鋭い指摘で、考えさせられるものでした。表現に関心がないわけではないのですが、それは別の本で、という感じですかね。

152
松村さん、こんにちは。ただいま「北見志保子とオタスの杜」について考えていて、近日中にブログに感想を書きたいと思っています。ただ、このテーマは繊細な部分を含み、ササッと読んでササッとブログに書く、というわけにもいかず、ちょっと時間がかかりそうです・・・。

谷村さんの書評を私は読んでいないのですが、松村さんのコメントが引用した文を見ると、私の感想とは少し違う気もします。谷村さんは『短歌は記憶する』のテーマや手法自体に批判的であるように思われます(「通しテーマを優先した結果、一首一首はやや浅い読みで」のあたりとか)。谷村さんの好みのとおりにしたら、『短歌は記憶する』のテーマ自体がどこかに消えてしまうのでは? 私の立場は、「通しテーマ」への関心をもっと突き詰めることがさらに深い読み(表現まで含めた)につながる、というような感じです。「当時の社会と文化、作者の思想・感情」は「窓」自体の形状や性質にも反映していると思うのです。


153
斎藤史
質問です。
塚本邦雄が『花隠論』の「蝶に針」という斎藤史論で、小玉朝子は忘れさられ、津軽照子は新短歌に去ってしまって、斎藤史が定型短歌のプリマドンナになったという記述をしていたと思うのですが、津軽照子にも『魚歌』に匹敵するような定型短歌の作があるのでしょうか。ご存じでしたら、歌集名をご教示願えないでしょうか。
小玉朝子の方は忘れさられたままにするのは勿体ないですね。とくに『黄薔薇』巻頭の歌は。

いちまいのガラスの魚(さかな)泳ぎゐて透明體となりし海なり
鮫の眼にまたゝかれゐるわたつみの生物たちをそつと思へり
青いあの月の破片(かけら)は海に墮ち太古の魚に食べられてゐる
潮錆のくらき海より這ひ出でゝわが胸を噛むわにざめのむれ

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