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 一番驚かされたのは、菊池孝彦「高瀬一誌の虚無律:抒情と虚無との弁証法を巡って」である。不勉強な私は菊池氏の名を初めて知り、歌壇にこれほどの書き手がいたのかと思った。

 氏の文章は論旨が明快だ。しかも、内容の密度が濃く、読み手の思考を刺激する。その文章の展開を駆け足でたどってみよう。

 考察の対象は高瀬一誌の自由律の歌である。氏によれば、「詩歌にとって最も重要なことは題材ではなく韻律や修辞であり」、短歌や俳句にとってそれは律なのだが、自由律の詩歌はその「最も重要な」ところを破棄することになる。

 韻律のない言葉の連続を詩歌と呼ぶことは出来るのか。これは「自由詩」を考える上で避け難い問いだが、実はこの問いは人間にとって「自由」とは何かを考えることに近似した問いで、何故なら必ずそこには袋小路が現れるからである。


 「自由詩」を考えることは、人間にとっての「自由」を考えることに似ているという。特殊な問いがより普遍的な問いにつながるなら、その特殊な問いは取り上げて考える価値がある。氏は普遍的な問いまで見通すことを常に忘れない。

 高瀬一誌はいかにして「自由律という不自由を逆手に取って表現の弛緩を免れ、短歌に新しい問いを投げ掛けることに成功したか」。氏は次のように述べる。

 高瀬は(略)定型律である五七五七七を半ば意識しながらそこに不可欠且つ必然的な切断を一首ごとに異なる形で持ち込む、という方法を発明した。こうした方法の偶発的な成功例は自由律短歌・俳句と呼ばれる作品群の中にも見出すことが出来るかも知れないが、短歌の方法論として意識的に採用し、練り上げ、文体の完成に導いたのは高瀬一誌が最初である。


 つまり、高瀬は律から逃れて自由になろうとしたのでなく、逆に一首ごとに、その一首に不可欠な律を探り、導入したということだろう。氏は高瀬の方法がその歌に「不可思議な脱力感」、「笑いと表裏一体の虚無感」をもたらしたと見る。

 問題は、高瀬の方法が結局短歌の定型律に依拠しており、それなくしては成り立たないことだ。定型律が滅びるなら、高瀬の歌の命脈もまた尽きる。氏は次のように言う。

 その意味で高瀬一誌は永遠のマイナーポエットであると言うべきかも知れない。しかし、逆に考えれば短歌でメジャーポエットが果たして可能なのかということがむしろ問われねばならないだろう。


 ここにも、特殊な問いからより普遍的な問いへと赴く氏の志向がみとめられる。

 短歌が社会に関与し得、大状況と対峙できるとする無邪気な幻想に浸る歌人たちを多数目にするこの頃、むしろ短歌そのもののマイナー性をも諧謔や機知の中に照らし出しているのが高瀬短歌なのだとしたら高瀬短歌の批評性は短歌という文芸自体に及んでいると考えるべきで……


と言い、さらに

 このような見地から方法論として検討するならば、エピゴーネンにならずに高瀬の方法を正当に引き継ぐ歌人の誕生を今後も私たちは期待することが出来る……


と結論付けるところは明快そのもので、これほど気持ちよく読める文章は短歌関係の雑誌にはそうそうないと思われる。


※ 高瀬の「高」はハシゴダカ。


(2016.12.12 記)

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