最新の頁   »   柴生田稔  »  柴生田稔『春山』初版本の自主規制(5)
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 書き始めると、いろいろと書きたいことが出てきてしまう。散漫な話にならないように、とりあえず基本的な事柄だけを押さえておこう。

年老いし教授は喚ばれぬ一生(ひとよ)かけし学説に忠良を糺(ただ)されむため


 この一首は、『春山』改版本で「断想」六首の一首目。その六首の初出はすべて『アララギ』1935(昭和10)年5月号である。初出・初版本・改版本の本文を比較してみる。

  a 初出

   競周容以為度
年老いし教授は喚ばれぬ一生(ひとよ)かけし学説に忠良を糺されむため
言挙をいやしとせりき尊きを言挙げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人もはやく逝きたり
時代(ときよ)経て人は説かむか昭和の代のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日(いくか)を経つつすでに凋みぬ


  b 初版本

   断想
言挙
(ことあげ)をいやしとせりき尊(たふと)きを言挙(ことあ)げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人も今は世になし
時すぎて人は説かむか昭和の代
(よ)のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日
(いくか)を経つつすでに凋(しぼ)みぬ


  c 改版本

   断想
年老いし教授は喚ばれぬ一生
(ひとよ)かけし学説に忠良を糺(ただ)されむため
言挙
(ことあげ)をいやしとせりき尊(たふと)きを言挙(ことあ)げて今ぞほしいままなる
国こぞり力のもとに靡くとは過ぎし歴史のことにはあらず
sich lächerlich machen の語のなき国と言ひにし人も今は世になし
時すぎて人は説かむか昭和の代
(よ)のインテリゲンチヤといふ問題も
かたくりのともしき花は風さむき幾日
(いくか)を経つつすでに凋(しぼ)みぬ


 この間の改作の主な点を挙げれば、

 ・初出時のタイトル「競周容以為度」を初版本で「断想」に改めた
 ・初版本に「年老いし教授」の一首を採らなかった
 ・改版本で「年老いし教授」の一首を補った

といったところだ。

 「年老いし教授」は当時の東京帝大教授、美濃部達吉。1935年2月の貴族院本会議で美濃部の天皇機関説が批判され、貴族院議員でもあった美濃部は自説の内容について釈明するための演説をおこなった。「年老いし教授」の歌はこの件に取材している。

 一首の立場に注意すべきだ。「一生かけし学説」という表現に美濃部に対する敬意と同情はまぎれもない。したがって、直後の「忠良」は括弧付きの「忠良」ということになる。ファシストがいうところの「忠良」か否か、今まさにファシストによって糾弾されようとして——といった文脈に下句はなるだろう。

 要するに、これは天皇の名を借りたファシズムが急速に力を得てゆく時代にそれを比較的明確に批判した歌と言ってよい。

 初出時のタイトル「競周容以為度」は、この一首の立場をさらに明瞭に示す役割を担っていた。それは屈原「離騒」からの引用で、「周容を競ひて以て度と為す」などと書き下す。「世間に媚びへつらうことを競って、それを当然と考えている」というほどの意味だろう。当時、美濃部を非難する者の勢いは激烈だった。同年4月には美濃部の著書『憲法撮要』等が発禁処分になった。その時流に反する意見を、作者はタイトルの字句のうちにも込めていたのである。

 初出の後、同年10月には当時の岡田内閣が声明を出し、天皇機関説は「国体の本義」からはずれたもので排斥すべきだ、とした。危険思想の最たるものと断じたわけである。天皇機関説を肯定しているとも読める「年老いし教授」の歌は、憲兵司令部の検閲で真っ先に問題視されることが予想される。作者が初版本にこの歌を採らなかった理由である。

 初出の二首目以降は、いずれも一首目の「年老いし教授」の歌と同じ事実を背景にしていたと考えられる。ただし、その事実と直ちに結び付く具体的な表現は無い。それゆえ、それらの歌は初版本にほぼそのままの形で採られたのだろう。ここでも、「年老いし教授」の歌を収録しなかったからこそ他の歌は収録できた、と見ることが可能だ。

 なお、同時にタイトルを「断想」に改めたことで、それらの収録歌はより一層特定の事実と結び付きにくくなり、検閲に対して安全になった。ただ、初出時の作者のモチーフを考えれば、一連の歌の内容は本来「断想」ではなかったはずだ。改版本で「年老いし教授」の歌を補いながら、「断想」のタイトルを初版本のまま残したのは、一種の韜晦だろう。あるいは、そこに作者の戦後の悔いを見出すべきなのだろうか。つまり、それは結局積極的な志を欠いた「断想」に過ぎなかった、というような——。


(2016.11.14 記)

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