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 前々回の記事について、松村正直さんからコメントをいただいた。『遠景』よりさらに後年の本では、例の詞書が「七月十二日」云々になっているという。私は本当にうっかりしていた。

 七月、友等土に帰す。(『新風十人』八雲書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『魚歌』ぐろりあ・そさえて、1940年)

 七月十三日、わが友御裁きに伏す、(『歴年』甲鳥書林、1940年)

 七月十三日、帰土。(『遠景』短歌新聞社、1972年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史全歌集』大和書房、1977年)

 七月十二日、処刑帰土。(『斎藤史歌集』不識書院、1988年)


 こうして並べてみると松村さんの指摘のとおりで、『斎藤史全歌集』から「十二日」に改められたようだ。

 では、結局、それ以前の本に「十三日」とあったのはなぜか。1936年7月12日に栗原安秀らの死刑が執行されたことは、同日中に陸軍省から発表され、新聞で報道された。史はその日付を知っていたと想定するのが自然だろう。

 別個にまとめられた『魚歌』と『歴年』のどちらにも「十三日」とあるから、おそらく誤植ではない。

 あるいは発禁等の処分を免れるために偽装した可能性もあるかと考えてみた。しかし、別の詞書には事件が起きた月日も記されており、それは『魚歌』以来、正しく「二月廿六日」で一貫している。死刑執行の日にちの方だけをずらすことは、はたして検閲をすり抜けるために有効かどうか、疑問だ。

 友の刑死は史の人生に重大な影響を及ぼした事柄であり、その日にちを間違えて記憶したとは考えにくい。ただ、例えば史が同年7月12日には日記を書かず、翌13日付の日記に友の刑死のことを書き付け、のちに『魚歌』『歴年』をまとめる際にそれを参照した、ということはあるかもしれない。考えにくいことではあるが、一つの可能性として記憶違いの線も残しておこう。


(2016.7.19 記)


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