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 「桐谷侃三」に関する篠弘の一連の発言で、ひとつ腑に落ちないことがある。篠は侃三の正体を追い求めて、一旦は太田水穂と結論付けた。ところがその後、いつの間にかこの説を取り下げたらしく、水穂とは別の人物の名を挙げることになった。この旧説から新説への変更の経緯が、私にはよく理解できないのである。

 桐谷侃三は、1940(昭和15)年、歌誌『潮音』に四回にわたって掲載された時評の筆者である。土岐善麿の歌集『六月』を取り上げた11月号掲載「転換期の短歌と称するもの:歌集「六月」の隠匿する思想を検す」が

 これが皇軍への軽視であり愛敵思想でなくて何であらう。


といった軍国主義的言辞の激烈さによってよく知られている。しかし、侃三の名はこの四回分以外に同誌上に見えず、本人を直接知る者もいなかったことから、誰の変名であったのかが後年研究者の間で問題にされるようになった。

 渡辺順三は中河与一と断定し、篠も「戦時下の歌壇論争」二十二(『短歌』1973年5月)ではそれに従った。この篠の文章に対し、中河本人が強く否定し(「あきれた文章:篠弘に与ふ」、『短歌』昭和1973年7月)、太田水穂の子息で『潮音』代表でもあった太田青丘もまた、侃三は中河でないとした上で「当時『潮音』の編輯を手伝ひ、精力的に論文をよく物してゐた「潮音」同人のT氏であらう」と述べた(「「春の夜の夢の浮橋」と「桐谷侃三」」、『潮音』1973年8月)

 結果、篠は自説撤回と中河への謝罪を余儀なくされた(「続「桐谷侃三」の補注:戦時下の歌壇論争・別記、『短歌』1975年1月)。ただ、篠としては、そのことに加えて、侃三の正体がなお隠された形になったこの間の経緯が相当不本意であったのだろう。1940年当時の『潮音』幹部・同人その他のうちでTのイニシャルを持つ者を九名までことさらに列挙し、さらに

 水穂の本名は「貞一」で、「ていいち」と訓まれている。


と記して、侃三が水穂の変名である可能性にまで触れた。潔くないといえば、潔くない。しかしまた、それは真実を追究してやまない、研究者らしい態度でもあった。

 一方、青丘は同じ1975年1月の『潮音』誌上でもう一歩踏み込んで、侃三は「T・K」であるとした(「潮音六十年史」)。こうなると水穂は当てはまらない。青丘は篠「続「桐谷侃三」の補注」を見る前にこの文章を書いたと思われるが、結果的に水穂の名誉を一定程度守ることになった。

 不透明なのは、この後の篠の言動である。篠は青丘の「T・K」説に対し、なぜか長らく沈黙した。私の知るかぎり、次に篠が桐谷侃三に言及したのは、二十年以上も経ってからのことである。そして、その内容が奇妙だった。

(続く)

(2016.6.6 記)
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