革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
塚本邦雄『水葬物語』(1951年)
句跨りの例としてよく知られた一首。例えば三枝昂之『昭和短歌の精神史』(本阿弥書店、2005年)は、この歌の意味内容について、「非現実的で暗示的な場面」の提示を通じて「革命への侮蔑」を表明したものと解した。浅野であれば、その意味内容のリズムを優先して定型の句のリズムは後回しにした結果の句跨りだと説明するにちがいない。しかし、三枝は句跨りのリズム自体にも注目していた。
あえて読者に難渋さを強いる表現、それが「オリーヴ油の河にマカロニを流しているような韻律」からの塚本的な脱出法であり、「三十一音を最後の限界とする短詩の『新しい調べ』」である。(三枝同書)
つまり、「破調構造」になってしまったのではなく、ことさらに狙ってそうしたという理解だろう。
晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて
葛原妙子『葡萄木立』(1963年)
こちらの歌の各句の音数は五・八・五・五・七か、あるいは第三句を欠いた五・八・十・七か。いずれにせよ、字足らずである。浅野は字足らずの分析をとくに示していないが、この葛原の一首をどのように読むのか、知りたいところだ。稲葉京子『葛原妙子』(本阿弥書店、1992年)は第三句を欠いた歌と見て、次のように述べた。
……第三句が全く消去されてしまっているのである。この大きな消去によって生まれ出た無韻の効果は絶大であると思う。(略)晩夏光がおとろえて、さびしく静かな夕ぐれ方の限りなく深い無韻感を、この欠落した第三句が大きく拡げているのである。
稲葉もまた、字足らずの句のリズム自体に効果があることをみとめている。
浅野は何が短歌かという問いに定型律という解を与えた上で、「破調構造」を持つ作をも短歌の領域内に含めようとしているのだろうか。そうであるなら、その試みは有意義だと思うが、同時に困難なものだという気もする。浅野とは逆に、近藤芳美や稲葉、三枝のように「破調構造」をそのまま破調として享受する読者がいるからだ。私なども、近藤たちとほぼ同じ読み方をする。
葛原の晩夏光の一首のように明確な「破調構造」を持つ作を「短歌」としてみとめ得るのかどうか、私には分からない。ただ、少なくとも、このような作は歌集に収められることでおもしろく感じられるようになる、というのが私の考えだ。破調という概念も、そこに何らかの意義を読み取ろうとする読み方も、短歌定型という比較対象があって初めて成り立つと思うのである。
(2016.5.12 記)
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