最新の頁   »   短歌一般  »  『塔』2016年4月号を読んで(4)浅野大輝『「定型っぽく読める」を考える』その2
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 さて、浅野は藪内亮輔・千種創一・溺愛らの歌を引いて、「破調構造を含む歌」が破調でないように、つまり「自然な短歌定型の韻律」のように読めることがあるとし、その「読みの機構」を明らかにしようとする。しかし、私の感想の結論を先に言えば、浅野自身も言及している、

 もちろん、韻律感覚には個人差があり(略)いくら説明されても納得できない、ということはあると思う。


という大きな壁を、浅野の論考は結局越えることができていないように思われた。理由は三つある。

 第一に、引用歌が時間の審判に耐えた有名歌でないこと。もし有名歌を例に挙げることができていたなら、「破調構造を含む」のに破調でないように読めるという現象の存在自体はまず自明のこととなるはずだから、それについて読者を説得する必要はなく、「読みの機構」の解明に論考の焦点を絞ることができたはずだ。

 第二に、その「読みの機構」の結論が簡明すぎること。

 つまりこの現象は、増加している句のようなものを正規の句として捉えてしまう初読時の錯覚が韻律的な規定に残存しているために、その後破調構造に気づいたとしても初読時の規定にしたがって短歌定型的韻律で読めてしまう、という読みの機構の間隙をつく形で存在していたのである、……。


 私なりの理解で言い換えれば、初読の最中は句の増加を増加と認識することができず、正規の句として認識することになり、読み終えた結果として句の増加に気付いても、その初読時の認識は消えない、ということか。しかし、一人の読者としての私は、句の増加に気付いた後ではそれを定型とは思えない、としか言えない。

 引用された千種の歌は下句が字余りで計二十音であるのに対し、上句は三句十七音のきれいな定型である。仮に上句が下句同様の大幅な字余りであっても、浅野の主張は成り立つのか。その辺りに考察の余地がないか。

 第三に、「破調構造のどこまでが自然な短歌定型の韻律として読めるのか」という問いを出しながら、それについては論じていないこと。難しいことかもしれないが、そのように読める限界を示すことができれば、感覚の「個人差」を乗り越える契機になり得るような気もする。

(2016.4.27 記)
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