最新の頁   »   短歌一般  »  『短歌研究』2015年8月号を読む(5)川野里子「七十年の孤独:第二芸術論の今」
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 ガルシア・マルケスの小説の題名に引っかけた論題といい、川野自身を含む昭和の終わり、平成の初め頃の若手歌人の活動にまで「第二芸術論」の影を見ようとするときの文体といい、非常に熱く、読みごたえがある。

 この時、明るく軽い口語は、自らを破片とし時代の空気になりきることによって危うさを表現しようとしていた。反対に文語はその調べを生かしながら普遍的な主題と対話し、時代に立ち塞がる違和感として立とうとしていた。それは二つの異なる態度であったが、立ち会っていたのは文化的亀裂をどう生きるかという問いであった。


 「この時」すなわち「バブルの時代」はおそらく、他の多くの「時代」が特別であるのと同程度に特別であるというに過ぎず、程度としてはそれ以上でもそれ以下でもない。しかし、その時期を二十代の若者として生きた川野には、強い思い入れがあるのだろう。

 興味を引かれたのは、

 現代短歌とは、第二芸術論以後の短歌のことだ。


と断言しているところだ。「現代短歌」の起点を前衛短歌に見る篠弘説の変形のようだが、

 第二芸術論への賛同も反対も、それらすべてをひっくるめて、現代短歌とは第二芸術論に代表されるような否定論を核として抱きながら展開してきた戦後の詩型のことだ。


と述べ、川野自身の作品もそのうちに含めるとき、「現代短歌」の範囲は篠説よりもはるかに広くなるようだ。

 一つ問題なのは、第二芸術の論よりも早く戦後の歩みを始めた宮柊二と近藤芳美をどのように位置付けるのか、明らかでないことだろう。


(2015.8.23 記)

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