線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』
この歌について、もう少し。線香を手に取る場面でソフトクリームを連想するような、ずれた「私」とその「未決定の浮遊感」を述べ表すこと自体が、もしかするとこの歌の主題なのかもしれない。そうだとすると、結句の語形もまた、その主題追求のためには不可欠のものなのかもしれない。
だから、以下は歌の解釈から一旦離れる覚書。結句の
砂利道を行く
を
砂利の道行く
に替えてみると、どうだろう。出来事感が格段に増すように私には感じられる。これは、松村さんが指摘したことと同じではないか。
あくまで印象の話ですが、出来事感の比較を考えた場合、「夏草に汽缶車の車輪が来て止る」と「が」が入ると散文的になって、弱くなる気がします。
(松村さんのコメント)
「砂利道を」「車輪が」の方は、どちらも現代文風で散文的。
対して、助詞「を」「が」をそれぞれ抜いた場合は、古文風だ。韻文であることをより強調した形とも言えるだろう。
古文風だから出来事感が増すのか。韻文的だから、そうなるのか。あるいは、「砂利の道」「車輪」で一度切れる感じがあって、そこでモノのイメージが印象付けられるから、なのか。
(2015.8.10 記)
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