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 買ったまま読んでいなかった『歌壇』2013年11月号の特集「斎藤茂吉『赤光』刊行百年をめぐって」を読む。鈴木竹志さんが好きな歌として

とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり



を挙げているのを見、さらに小池光・品田悦一・花山多佳子三氏の鼎談でも同じ歌が話題に上っているのを見る。自分も以前この歌について書いたことがあるのだが、どんな文章だったか、久しぶりに確認したくなる。

 本棚の奥の方をしばらく探して掲載誌発見、8年前の拙文を読み返す。論旨をほとんど忘れていることに驚く。しかし、論の筋は案外わるくないかも(自画自賛、すみません)。末尾に「〜を機会を改めて述べたい。」などと書いてあるが、その後〜について「改めて述べ」ることは一度もなかったので、これは結局逃げの言葉だったかなと思う。

 以下、旧稿。田螺に関心のある方、続きを読む、をクリックしてご覧いただければ幸甚です。

*****

 田螺はロマンチックか

  ——斎藤茂吉と塚本邦雄に関するノート




 田螺は〈一種ローマンチツクな〉動物である——そう語ったのは若き日の斎藤茂吉であった。そして、塚本邦雄は、茂吉のこの言葉に反対して、田螺がロマンチックとは〈義理にも感じかねる〉と記したのであった。田螺に対するこの感じ方の違いは、茂吉と塚本の差異を端的に示しているようである。あらかじめ言ってしまえば、茂吉の内には、農村の信仰に由来した感性が残っており、塚本の内には茂吉ほどそれが残っていない、と思われるのである。

 明治43年4月、『赤光』刊行の3年ほど前のことである。「アララギ」同月号の題詠欄の募集課題は〈田螺〉で、選の担当は茂吉であった。先に掲げた茂吉の〈ローマンチツク〉云々の言葉は、同時掲載のエッセイ「田螺の歌に就て」の中に出てくる。そして、茂吉が選者詠として載せたのが、後に『赤光』に収録された次の歌である。


とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり

   (表記は『赤光』初版に拠る)




 迦陵頻伽は、極楽に住むとされる鳥。人頭・鳥身で、美声で啼くという。茂吉の歌は、その迦陵頻伽の私生児である田螺は——といったものである。田螺に対して茂吉が感じていたロマンチックな感じを、この歌の内容に昇華させたと見てよいであろう。

 塚本は、この歌を、自著『茂吉秀歌『赤光』百首』(文藝春秋社、昭52.7)の中で取り上げている。それによれば、この歌は、塚本が『赤光』の中で〈最も愛する歌の一つ〉であるという。〈奇想天外なおもしろさ〉〈詩魂の戦慄〉を感じさせてくれる、というのである。

 これだけなら、特に驚くこともない。いわゆる前衛歌人の塚本が、写実一辺倒の歌よりも、写実の道から外れたところのある歌を好むのは、自然な反応と思われる。ただ、注意されるのは、初めにも触れた通り、塚本が田螺について、ロマンチックとは〈義理にも感じかねる〉と記していること。加えて、茂吉の田螺の歌の内容をあくまで〈一瞬作者の脳裏に閃いた空想〉と捉えていること、類似の民話伝説等を探索するのは〈無駄なこと〉と断言していることである。ここに窺われるのは、田螺の秘密を想像して詠んだ明治43年の茂吉と、その歌を好む塚本との共通点ではない。二人の間の相違点である。田螺に対する感じ方が茂吉と塚本とでは異なっている上に、塚本は、茂吉の田螺の歌の底にあったに違いないその〈一種ローマンチツク〉という感じ方に、注意を払おうとしない。むしろ、それに注意を払うことを拒んでいるようにさえ見えるのである。

 茂吉の田螺の歌が単に茂吉個人の一瞬の空想だけによって生み出されたのでなく、先行文学からさまざまな影響を受けていたことは、本林勝夫『斎藤茂吉の研究 その生と表現』(桜楓社、平2.5)が詳しく論じている。なかでも興味深いのは、次の一句が先行して存在するとの指摘である。

泥の精星と契りて田螺を生む



 田螺の親を〈星〉とするこの句の発想は、田螺の親を迦陵頻伽とする茂吉の歌の発想と類似する。もちろん、本林が述べているように、〈かりようびんが〉は発想の飛躍の大きさにおいて、この句の〈星〉を凌ぐ。が、それにしても、両者の発想が似ていることは否定できまい。歌原蒼苔なる人物の作であるこの句は、正岡子規「俳句新派の傾向」(「ホトトギス」明32.1)に、〈架空的理想を現した〉句として紹介されたものである。本林の考察によれば、茂吉は、その子規「俳句新派の傾向」を収めた俳諧叢書の一冊『四年間』(明35)を読み、蒼苔の句を知っていた可能性が高い。茂吉の掲出歌は、〈意識的にせよ無意識的にせよ、蒼苔の句から暗示を得〉て詠まれた、というのが本林の推定である。

 本林の考察は周到であり、その推定はおそらく当たっている。これだけでも、茂吉の田螺の歌に〈一瞬作者の脳裏に閃いた空想〉だけを見ようとする塚本の鑑賞法が、修正を要することは明らかであろう。

 ただ、茂吉が蒼苔の句から暗示を得ていたとして、その暗示の強さの度合いを私は考えたい。田螺をロマンチックな動物とする感じ方は、茂吉が蒼苔の句を知ったことによって、初めて茂吉の内に生まれたものであろうか。蒼苔の句にそれほどの力があるとは、私には思えない。それよりも、茂吉は以前から田螺についてそのように感じていたために、蒼苔の句も受け入れやすかった、と考える方が自然であろう。ならば、田螺に対するそのような感じ方は、もともとどこから生まれてきたものなのか。その元にある何かは、結局田螺の歌の底の底にもあるはずであるが、それはどのようなものなのか。

 岡井隆「田螺問答」(「未来」昭30.5)は、つとに茂吉の田螺の歌の底にあるものを追求したエッセイである。岡井は先ず、柳田国男『桃太郎の誕生』に出てくる「田螺の長者」の民話に注目する。子の無い貧農の夫婦が水神に願を掛け、田螺の子を授かるところから始まる話である。岡井は石田英一郎『一寸法師』も参照し、この民話に〈太平洋沿岸から古代オリエントの母系的農業民族に共通〉の〈大地母神と小男神の信仰〉を確認する。そして、迦陵頻伽と田螺を取り合わせる茂吉の歌の底に、「田螺長者」の民話を、さらにはその母系的農業民族共通の信仰を見ようとするのである。

 興味深い仮説であると思う。大地母神と小男神の神話に関わるものとしての田螺を、近代の目で捉え直せば、その田螺はロマンチックな動物に違いない。つまり、この岡井説は、田螺に対するそのような感じ方の元をも示唆するわけである。

 岡井自身は、自説について〈推論の範囲を出でぬ〉と断っている。茂吉が幼少期から「田螺の長者」の民話に接していたかどうか、実証できていないためである。私もいま、それを実証することはできない。ただ、田螺をロマンチックな動物とする感じ方の元に、何らかの、農村の信仰がある、というところまではみとめてよいのではないか。なぜなら、「田螺の長者」の民話に限らず、田螺に霊妙な力をみとめる俗信は、日本各地に広く分布していたらしいからである。そのような俗信の対象としての田螺を近代の目で捉え直せば、それはやはりロマンチックな動物ということになるであろう。もちろん、その感じ方の元に、田螺に霊妙な力をみとめる俗信があるということも、また実証することは難しい。しかし、「田螺の長者」の民話に限定した仮説よりも、可能性の高い仮説にはなるのではないか。

 岡井の前掲エッセイは触れていないが、柳田国男に「水の神としての田螺」(「人類学雑誌」大3.1)というエッセイがある。柳田はそこで、田螺に関する俗信の様々な例を紹介している。それを見れば、かつて日本各地の人々が、田螺を、霊妙な力を持つものとしてあがめていたことが分かる。例えば、江戸時代成立の『栗太志』は今の滋賀県栗太近辺の地誌であるが、それによれば某村の神は田螺を〈使令(つかはしめ)〉としたため、氏子らは田螺を神のように畏れ敬したという。村人が他村に行って、田螺を料理した火であることを知らずに煙草の火に使うと〈忽ち戦慄を生じ、病みて数日に至る〉といった具合であり、耕作のときに田に田螺がいる場合は必ずこれを神社内の池に移した、という。また、菅江真澄『遊覧記』が伝える話は、茂吉の故郷に比較的近い地方の話として興味深いが、それによれば、羽後の某村の沼には石臼ほどの大きさの田螺が棲み、これが沼のヌシであったという。
 昭和16年刊行の『日本民俗学辞典』(梧桐書院)の〈田螺俗信〉の項を見ると、柳田「水の神としての田螺」が取り上げなかった類例も載っている。田螺に霊妙な力をみとめる俗信は、かつて日本各地に広く分布していたわけである。ちなみに、「アララギ」明治43年4月号の募集課題〈田螺〉には、古泉千樫が次の歌を寄せて選ばれている。

小山田の 田螺の神に 願ひせば 密子(ひそかご)やすく 生み落すちふ



 千樫の故郷下総にも、同類の田螺の俗信があったものと見える。千樫の歌はその内容をなぞっているだけなので、歌としての面白味に欠けるように思われるが、田螺の俗信の広がりを知るための一つの資料にはなるであろう。

 なぜ、田螺を、霊妙な力を持つものとしてあがめるのか。柳田の考えは次のようなものである。

 関東には田ニシを田ツブ又は単にツブと謂ふ地方多し。思ふにニシもツブも共に海に住む大形の貝なるを、比較に粗なる農人等、之と稍似たる一物の水田に居るを以て、直に其同類なりとし、此の如き名を下せしなるべし。(略)結局するところ田ニシは微物なれども、田舎人は之を深海霊物の先陣の雑兵ぐらゐに考へて、畏れ且つ敬せしものならんか。(引用は日本近代文学大系『柳田国男集』角川書店、昭48.12、に拠る)



 昔農村の人々は、海の貝に似たものが水田にいるのを見て、それを遠く海からやってきたものの末裔と見做し、かつそれに霊妙なものを感じて、あがめるようになったのではないか、ということであろう。柳田のこの考えも、この限りではまだ確実な証明に欠けるようである。が、仮にその考えの通りであるとすれば、田螺の祖をはるか遠方の存在と見做している点でも、この農村の信仰と、茂吉の田螺の歌とは通じ合っているように思われる。

 いずれにせよ、田螺をロマンチックな動物とする感じ方は、農村の信仰——田螺に霊妙な力をみとめる俗信——との関わりを想定することによって、最もよく理解できると私は考える。そして、茂吉の田螺の歌の底にあるのがその感じ方であるとして、そのまた底にあるのは、右に述べた農村の信仰である可能性が最も高いと考えている。これは、茂吉自身がその信仰を持ち、田螺に霊妙な力をみとめていたということではない。歌を詠むにあたって、その信仰の世界を歌の世界から排除しなかったということなのである。

 ここまで考えれば、塚本邦雄の位置も見えてくる。田螺をロマンチックな動物と感じない塚本は、茂吉に比べ、より一層近代の人であったわけである。また、田螺の歌の内容をあくまで〈一瞬作者の脳裏に閃いた空想〉と捉える塚本は、茂吉とはやや異なる短歌観の持ち主であったわけである。

 ところで、興味深いのは、田螺の歌の発表から10年後の大正9年、茂吉がその歌の制作時を振り返って述べた言葉である。すなわち、茂吉は「作歌稽古の思ひ出」と題するエッセイ(「短歌雑誌」大9.12)の中で、田螺を迦陵頻伽の私生児とする発想は〈伝説などには無いので、僕が田螺を見てゐるうちに勝手に僕の心に湧いた趣である〉と述べているのである。このときの茂吉は、自身の自由な想像力をひたすら強調するのみで、田螺をロマンチックな動物とする感じ方などにはまるで言及しない。

 「作歌稽古の思ひ出」を見ると、当時の茂吉が自己の歌風の変遷をどのように捉えていたかが分かる。いわく、初期は〈空想的〉で、そこから次第に〈写生的〉になってきた、と。しかし、このような捉え方は、茂吉の歌風の変遷の本質に届くものであったかどうか。もう余白が無い。子規以来の写実の技法が作者の個性を前提にするものであったこと、作者個人の想像を尊ぶ塚本邦雄の立場が明治43年当時の茂吉でなく、むしろ〈写生〉派を標榜する大正中期以降の茂吉に近いと思われること、を機会を改めて述べたい。



※『笛』2005.9 掲載。一部表現が重複してくどいところを直した。われながら文章の下手なのにあきれる。


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