東郷説の「未決定の浮遊感」も松村説の「宙ぶらりん」も、現実味に欠けて物足りない印象、を意味する言葉として私は受け取った。もしそれで間違いないとすれば、その印象は「ル形」だけから来るものか。「ル形」を含む作品の表現全体から来るものではないか、というのが私の一番の疑問だ。
この「止る」を私は一度限りの出来事のように感じていたのだが、仮に循環する季節の中で繰り返される事柄だとしよう。それでも、この一句が喚起するイメージの鮮烈さに「未決定の浮遊感」や「宙ぶらりん」といった評言がそぐわないことは、東郷氏も松村さんもみとめるのではないか。
(2015.7.15 記)
夏草に汽缶車の車輪来て止る
山口誓子『黄旗』(1935年)
この「止る」を私は一度限りの出来事のように感じていたのだが、仮に循環する季節の中で繰り返される事柄だとしよう。それでも、この一句が喚起するイメージの鮮烈さに「未決定の浮遊感」や「宙ぶらりん」といった評言がそぐわないことは、東郷氏も松村さんもみとめるのではないか。
(2015.7.15 記)
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この句は確かに一度限りの出来事の感じが強いですね。その点は全く認めます。車輪がズームアップされて、スローモーションで迫って来る感じが強くしますね。
やはり「ル形」の問題だけでなく、どんな語彙が使われているかとか、文体(俳句という形)など、表現全体が関係している問題なのでしょう。
以下、あくまで印象の話ですが、出来事感の比較を考えた場合、「夏草に汽缶車の車輪が来て止る」と「が」が入ると散文的になって、弱くなる気がします。
さらに言えば「公園に自転車が来て止る」といったありふれた言葉(?)だけを使うと、出来事感がやはり薄くなる気がします。(別の話になってしまいますが、実作においては「濃い言葉」と「薄い言葉」のバランスといったことをよく考えます)
たぶん、そうした用語や文体などいくつもの要素が「ル形」の多用と結びつくことで、「未決定の浮遊感」「宙ぶらりん」といった印象を醸し出すのではないでしょうか。
やはり「ル形」の問題だけでなく、どんな語彙が使われているかとか、文体(俳句という形)など、表現全体が関係している問題なのでしょう。
以下、あくまで印象の話ですが、出来事感の比較を考えた場合、「夏草に汽缶車の車輪が来て止る」と「が」が入ると散文的になって、弱くなる気がします。
さらに言えば「公園に自転車が来て止る」といったありふれた言葉(?)だけを使うと、出来事感がやはり薄くなる気がします。(別の話になってしまいますが、実作においては「濃い言葉」と「薄い言葉」のバランスといったことをよく考えます)
たぶん、そうした用語や文体などいくつもの要素が「ル形」の多用と結びつくことで、「未決定の浮遊感」「宙ぶらりん」といった印象を醸し出すのではないでしょうか。
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松村さん、こんにちは。
たしかに、たしかに……「が」が入ると「出来事感」が弱くなるようですね。誓子の原作だと「夏草に汽缶車の車輪」で一度切れる感じがあって、その時点で出来事として認識するからでしょうか。
「公園に自転車が来て止る」の例もおもしろいですね。よく目にする言い回し、よく目にする光景。それらの要素と「ル形」が結び付いて、「止る」を習慣的動作として感じさせるのでしょうか。
「用語や文体などいくつもの要素」と文末の語形が相まって「出来事感」の有無に影響する、といった辺りで松村さんと私の見方は一致させられそうです。
東郷さんの見方をさらに伺いたいところです。もう一度、コメントしてくださるとよいのですが。
なおなお、私は「出来事感」が薄いということと「未決定の浮遊感」「宙ぶらりん」とは分けて考えたいです。後者にはどうしても否定的ニュアンス、もしくは違和感の表明のようなものが感じられます。しかし、習慣・反復の動作の叙述が詩的表現として成立する場合も当然あると思うのです。
たしかに、たしかに……「が」が入ると「出来事感」が弱くなるようですね。誓子の原作だと「夏草に汽缶車の車輪」で一度切れる感じがあって、その時点で出来事として認識するからでしょうか。
「公園に自転車が来て止る」の例もおもしろいですね。よく目にする言い回し、よく目にする光景。それらの要素と「ル形」が結び付いて、「止る」を習慣的動作として感じさせるのでしょうか。
「用語や文体などいくつもの要素」と文末の語形が相まって「出来事感」の有無に影響する、といった辺りで松村さんと私の見方は一致させられそうです。
東郷さんの見方をさらに伺いたいところです。もう一度、コメントしてくださるとよいのですが。
なおなお、私は「出来事感」が薄いということと「未決定の浮遊感」「宙ぶらりん」とは分けて考えたいです。後者にはどうしても否定的ニュアンス、もしくは違和感の表明のようなものが感じられます。しかし、習慣・反復の動作の叙述が詩的表現として成立する場合も当然あると思うのです。
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動詞のル形と出来事感について(続き)
中西さん、松村さん
しばらくブログを見ないうちに、お二人の間で話が進んでいました。
状態動詞「ある・いる」や、思考動詞「思う」、感覚動詞「見える・聞こえる」などを除いて、動作動詞のル形は現在の出来事を表さず、その意味で日本語動詞には現在形は存在しない、という文法の基本線は変わりませんが、だからといって、私とて、短歌における「出来事感」のすべてがル形のせいで決まるなどと考えているわけではありません。最近の口語短歌に見られる未決定性・浮遊性を醸成する一因として、結句のル形の多用があるのではないかと感じているにすぎません。
その意味では、松村さんがおっしゃっているように、時や場所の副詞とか、固有名などの「濃い」言葉など、一首において出来事感を左右する要因はたしかに複数あると思います。また、動詞の意味によっても、出来事感の強い動詞と薄い動詞があるようです。
引用された山口誓子の句「夏草に汽缶車の車輪来て止る」の例はおもしろいですね。この句については、私もお二人と同様に、出来事感が強いと思います。そういえば、俳句にはル形で終わるものが少なからずあります。
枯園に向ひて硬きカラア嵌む 山口誓子
ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
狂ひても母乳は白し蜂光る 平畑静塔
私にはよくわかりませんが、ここには俳句の特性としての「一瞬を切り取る」という詩型の生理が働いているのかもしれません。「彼の世より光をひいて天の川」(石原八束)のような体言止めの句では、そもそも時間を付与するべき動詞が欠損していますので、本来ならば出来事感には不利なはずですが、俳句というファインダーを通して瞬間を定着することによって、「確かにそのようなことがあった」という出来事感が生まれるのかもしれません。
しばらくブログを見ないうちに、お二人の間で話が進んでいました。
状態動詞「ある・いる」や、思考動詞「思う」、感覚動詞「見える・聞こえる」などを除いて、動作動詞のル形は現在の出来事を表さず、その意味で日本語動詞には現在形は存在しない、という文法の基本線は変わりませんが、だからといって、私とて、短歌における「出来事感」のすべてがル形のせいで決まるなどと考えているわけではありません。最近の口語短歌に見られる未決定性・浮遊性を醸成する一因として、結句のル形の多用があるのではないかと感じているにすぎません。
その意味では、松村さんがおっしゃっているように、時や場所の副詞とか、固有名などの「濃い」言葉など、一首において出来事感を左右する要因はたしかに複数あると思います。また、動詞の意味によっても、出来事感の強い動詞と薄い動詞があるようです。
引用された山口誓子の句「夏草に汽缶車の車輪来て止る」の例はおもしろいですね。この句については、私もお二人と同様に、出来事感が強いと思います。そういえば、俳句にはル形で終わるものが少なからずあります。
枯園に向ひて硬きカラア嵌む 山口誓子
ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
狂ひても母乳は白し蜂光る 平畑静塔
私にはよくわかりませんが、ここには俳句の特性としての「一瞬を切り取る」という詩型の生理が働いているのかもしれません。「彼の世より光をひいて天の川」(石原八束)のような体言止めの句では、そもそも時間を付与するべき動詞が欠損していますので、本来ならば出来事感には不利なはずですが、俳句というファインダーを通して瞬間を定着することによって、「確かにそのようなことがあった」という出来事感が生まれるのかもしれません。
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東郷さん、コメントをくださってとてもうれしいです。問題の捉え方について、三人の間で一致点が見出せそうな気がします。もう一度考えて、近日中にブログの記事を更新します。
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