東郷氏の言を再度引けば、
とのことだ。現代日本語の話者の一人として、「動作動詞」の終止形止めが反復・習慣や未来を表わすことは私ももちろん知っている。ただ、その上で、そうでない場合もあるのではないかと疑っている。
東郷氏の説明は、現代語に限定したもののようにも思える。漢文訓読の肯定文の文末は一般に終止形だ。和文でも終止形の文末が頻出する文学作品がある。たまたま手元にある『雨月物語』の「菊花の約」から引こうか。
この「一刀にてそこに倒る。」の末尾を「倒れけり。」にしたら出来事感がより濃くなる、などと考えてみても無益だという気がする。もっとも、「菊花の約」には「十日を経て富田の大城にいたりぬ。」といった言い回しもあって、その使い分けについて考える必要はあるだろう。
なおまた、詩的言語は同時代の一般的語法に制限されなければならないものか。
(2015.7.14 記)
「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す(略)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。(『橄欖追放』第164回)
とのことだ。現代日本語の話者の一人として、「動作動詞」の終止形止めが反復・習慣や未来を表わすことは私ももちろん知っている。ただ、その上で、そうでない場合もあるのではないかと疑っている。
東郷氏の説明は、現代語に限定したもののようにも思える。漢文訓読の肯定文の文末は一般に終止形だ。和文でも終止形の文末が頻出する文学作品がある。たまたま手元にある『雨月物語』の「菊花の約」から引こうか。
いひもをはらず抜打ちに斬りつくれば、一刀にてそこに倒る。家眷ども立騒ぐひまに、はやく逃れ出で、跡なし。
この「一刀にてそこに倒る。」の末尾を「倒れけり。」にしたら出来事感がより濃くなる、などと考えてみても無益だという気がする。もっとも、「菊花の約」には「十日を経て富田の大城にいたりぬ。」といった言い回しもあって、その使い分けについて考える必要はあるだろう。
なおまた、詩的言語は同時代の一般的語法に制限されなければならないものか。
(2015.7.14 記)
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