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 東郷雄二『橄欖追放』第164回(5月18日付)が「口語短歌」の結句について問題提起をしている。ただ、その内容は興味深いものの、精密とは言えない。松村正直「歌壇時評」(『現代短歌新聞』40号、7月5日付)は東郷に概ね賛成しているが、私はもう少し議論の余地があると思う。

 東郷は竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』(2015年)の

線香を両手でソフトクリームのように握って砂利道を行く
海水の透明な水射すひかり大きな鳥が陸を離れる


といった歌を引きつつ、次のように述べている。

 「ある」「いる」のような状態動詞のル形は現在の状態を表すが、動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す (ex. 僕は明日東京に行く)。このためル形の終止は出来事感が薄い。何かが起きたという気がしないのである。口語短歌の多くが未決定の浮遊状態に見えるのはこのためかもしれない。


 不勉強な私は「ル形」という言い方を初めて知ったが、これは用言の終止形を表すもののようだ。「動作動詞のル形は習慣的動作か、さもなくば意思未来を表す」というのが学界の定説なのかどうか、それも私は知らないが、日本語の話者の一人としてどうも不思議に感じる。「彼は将来きっと東京に行く」は意思未来ではないだろうし、年譜の記述の「この年、初めて東京に行く」は?

 東郷は「ル形の終止は出来事感が薄い」と言い、

水苑のあやめの群れは真しづかに我を癒して我を拒めり
  高野公彦『水苑』(2000年)


などについては、

 完了の助動詞「り」が使われているため、きっぱりと何かが起きた感がある。


という。ならば、

あなたは勝つものとおもつてゐまたしたかと老いたる妻のさびしげにいふ
  土岐善麿『夏草』(1946年)

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
  宮柊二『山西省』(1949年)


といった歌はどうか。短歌ではないが、高村光太郎「風にのる智恵子」の一節、

もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ


の「智恵子飛ぶ」は? 私はそれらについて「出来事感が薄い」とまでは感じない。

 「伏す」は「伏しき」よりも一度限りの「出来事感が薄い」という判定を仮に認めるとしよう。その場合、動詞の終止形で言い切る効果は、それを口ずさむたびに何度でもありありと場面が現前するところにある——という説明の仕方はどうだろう。少なくとも「未決定の浮遊状態」よりは宮柊二の一首に合った説明だろうと私は思う。

 「未決定の浮遊状態」とは結局、引用した竹内の歌全体から来る印象ではないか。そもそも東郷の今回の問題提起は、竹内歌集を論じる中で、追記のように短く言及したものだ。いずれ本格的な再論があるだろう。

 
(2015.6.30 記)


 指摘をいただき、誤りを訂正しました。『タルト・タタンと炭酸水』の歌は孫引きです。

(2015.7.9 追記)

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コメント
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東郷さんの論は、これまで僕が実作において漠然と感じていた問題点を明らかにしてくれたようで、刺激を受けました。

出来事感については、もちろん、動詞の「ル形」(いわゆる現在形。現在のことを表すとは限らないので、日本語教育の現場ではル形と言うようです)だけの問題ではなく、歌の中に時を限定する言葉があるかどうか、固有名詞などの「濃い」(?)言葉が使われているかどうか、といったことも関係していると思います。

俵万智さんの『サラダ記念日』は口語の歌集として有名ですが、読み直してみると相当文語が混じっています。なぜ完全口語ではなかったのかといったことを考えます。例えば

洗い場に筆をすすぎて不規則に流れるものに心ひかれぬ
             『サラダ記念日』

という歌を

洗い場に筆をすすぎて不規則に流れるものに心ひかれる
              (改作)

とすると、僕は結句が宙ぶらりんな印象を受けてしまうのです。それが、東郷さんの書く「出来事感」の差かなと思っています。

宮柊二の「ひきよせて」の歌の鑑賞については、全面的に賛成です。過去の助動詞を使わずに「ル形」でおさめたことで、「それを口ずさむたびに何度でもありありと場面が現前する」という効果が生まれています。フラッシュバックしてくる感じがありますね。

ただ、それはこの歌の上句に「刺ししかば」という過去の助動詞+確定条件の「ば」があるからかもしれません。ここが単に「刺せば」であると、やはり宙ぶらりんな感じを受けてしまうのではないでしょうか。

最後になりますが、竹内さんの歌の1首目、歌集では「砂利道を行く」なのです。これは東郷さんの引用ミスですね。

100
日本語動詞の終止形について
 私の橄欖追放164回の文章をとりあげていただきありがとうございました。日本語動詞の終止形の意味について私が書いたことに疑問をお持ちのようですので、少し付け加えさせていただきます。
 まず日本語動詞には「現在形」というものはありません。日本語は時制が貧弱で、「食べる」「食べた」「食べている」「食べていた」くらいでして、日本語学ではそれぞれル形、タ形、テイル形、テイタ形と称します。そのうちル形は、「ある」「いる」など状態動詞を除けば、現在のことを表しません。疑問点としてあげられた「彼は将来きっと東京に行く」は確かに意志未来ではなく、「確度の高い予定」用法です。日本語と同じく現在形が現在のことを表せない英語でも John goes to LA next week. のように、確かな予定は現在形で述べます。
 年譜や日記や粗筋のル形は、時制・アスペクト価値を失って、出来事を時間の順に並べる働きしかしていません。ですから出来事性はきわめて薄くなります。英語でも年譜や粗筋は現在形で書きます。
 橄欖追放で触れなかったのは、スポーツ中継のル形で、たとえば相撲中継で「若乃花、前に出る!」のように目の前で起きていることをそのまま述べるル形は、例外的に現在のことを表します。が、この用法には話し手と聞き手が共有する発話の場が必要となります。
 引用された土岐善麿の歌で、もし結句を「いひき」か「いひにき」としたら、それは過去の一度きりの出来事のなります。そこをあえて「いふ」と終止形にすることで時間性を剥奪し、いつまでも周囲に漂うつぶやきに変える効果があると思います。また宮柊二の歌では、松村さんのご指摘のように上句の「刺ししかば」ですでに過去の表示があるため、「伏す」はそれを受けての結果となり、かえって迫真性が増しています。また高村光太郎の詩は、上に触れたスポーツ中継のル形の変種と考えられます。「あっ、コップが落ちる!」のような切迫性のある直後の未来用法ではないでしょうか。そのためにこの詩句においては、ル形が出来事感を帯びていると考えられます。
 しかし、ル形は基本的に「未然・習慣」の出来事を表すという基本は変わりません。

101
松村さん、東郷さん、コメントありがとうございます。記事内容を丁寧に受け止めてくださって、うれしいことです。少し考えて次の記事を書きますので、お待ち下さいますよう——。

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