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 馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし

   長塚節(明治41年作)



季節外れの歌で恐縮……。先頃、今野寿美がこの有名歌の「べし」の解釈について、次のような意見を述べていた。

 手元の鑑賞事典などでとりあえず四例を並べてみたところ、二つの鑑賞において「しずかに想い見るべきだ」と訳されていた。でも「べきである」「べきだ」という現代語は、先に触れたとおり義務的な口調として残ったものだから、かなり押しつけがましく感じられてしまう。島木赤彦に書き送った歌とされていることからも、節は本来の文語の「べし」の〈適当〉の意で「想ってみるのがよかろうよ」くらいのつもりだったのではないだろうか。

 (「現代短歌の文体」、『短歌』62巻1号、2014年12月)


 四件の鑑賞文のうち二件が「べし」を「義務的」な意味に取っていた由で、今野はその解釈に反対し、「適当」の意味に取ることを提案する。

 とりあえず気になるのは、今野が見た四件のうち、残りの二件はどう解釈しているのかということである。「義務」説でないというのだから、ニュアンスのより柔らかい「適当」辺りであるはずだ。

 例えば、木俣修『近代短歌の鑑賞と批評』(明治書院、1964年)は、結句の大意を

 心のなかにしずかに感じとるがよい。


とまとめていた。支持する先行解釈の方を紹介しないというのは、紙数の都合もあるのだろうが、如何なものか。

 もう一つ気になるところがある。今野は「適当」説の根拠として、島木赤彦に書き送った歌であるということを挙げている。

 確かに、古典文法の参考書は、主語が二人称の「べし」は適当の意味であることが多いと教える。しかし、この歌が赤彦に寄せることを念頭に置いて詠んだものであるかどうかは、検討の余地がありそうだ。

 漸く昨日初秋の歌といふものを得申候。空想交りの歌に有之候。


というのが赤彦宛書簡の一節。元々赤彦と関わりなく作った歌をたまたま赤彦に披露しただけではないのか。


(2015.5.7 記)

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