国立国会図書館の蔵書検索システムで安永蕗子『冬麗』を探したら、初刊本(砂子屋書房、1990年)はなぜか所蔵なし。文庫本(短歌新聞社、1994年)を所蔵していることが分かったのだが、その書誌情報に
とあって、驚いた。
フユウララという季語の漢字表記は確かに「冬麗」である。では、安永の歌集名はフユウララであろうか。しばらく考えてみたが、腑に落ちない。やはり音読みのトウレイが正しいのだと思う。
安永の自叙伝風の随筆集『風のメモリイ』(熊本日日新聞社、1995年)に、
とある。フユウララであれば、「辞書にはない」などと書くはずがない。この歌集名は、収録歌の
から採っている。朝靄の薄れてゆくのにまかせ、江津という名の「冬麗」は母のような湖である——ということだろう。このとき冬麗は冬の美というほどの意味である。これがフユウララ、すなわち冬の日光に照らされてのどかなこと、では意味が通らない。
フユウララという読み方は、国会図書館の担当者がたまたま季語の存在に気付いたというだけのことで、確かな根拠に基づいているわけではないのだろう。
なお、同館には、別の著者による『冬麗』というタイトルの単行本が数点ある。そちらはすべて句集である。それぞれの書誌情報を見ると、タイトルの読み方はトウレイだったり、フユウララだったりする。それらの情報に根拠があるのかないのかは知らない。
(2015.2.16 記)
タイトルよみ フユウララ
とあって、驚いた。
フユウララという季語の漢字表記は確かに「冬麗」である。では、安永の歌集名はフユウララであろうか。しばらく考えてみたが、腑に落ちない。やはり音読みのトウレイが正しいのだと思う。
安永の自叙伝風の随筆集『風のメモリイ』(熊本日日新聞社、1995年)に、
『冬麗』の名は辞書にはない。冬の朝もやの中で明けゆく湖の美しさから浮かんだ言葉である。(186頁)
とある。フユウララであれば、「辞書にはない」などと書くはずがない。この歌集名は、収録歌の
朝靄のうすれゆくまま江津とよぶ冬麗母のごとくみづうみ
から採っている。朝靄の薄れてゆくのにまかせ、江津という名の「冬麗」は母のような湖である——ということだろう。このとき冬麗は冬の美というほどの意味である。これがフユウララ、すなわち冬の日光に照らされてのどかなこと、では意味が通らない。
フユウララという読み方は、国会図書館の担当者がたまたま季語の存在に気付いたというだけのことで、確かな根拠に基づいているわけではないのだろう。
なお、同館には、別の著者による『冬麗』というタイトルの単行本が数点ある。そちらはすべて句集である。それぞれの書誌情報を見ると、タイトルの読み方はトウレイだったり、フユウララだったりする。それらの情報に根拠があるのかないのかは知らない。
(2015.2.16 記)
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