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 永井陽子は、高校生のころに『短歌人』に入り、長くその編集委員を務めるなどし、48歳で急逝するまでそこを去らなかった。だから、永井陽子といえば『短歌人』、という具合に連想が働くのは当然である。しかし、永井が所属した結社誌は、実は『短歌人』だけではない。また、永井は同人誌にも参加していた。

 それらの事実は、たとえば代表作の1つとも目される連作「なよたけ拾遺」の意義を探るとき、重要な鍵になる。なぜなら、「なよたけ拾遺」が初めて発表された場は本拠地たる『短歌人』でなく、『短歌研究』や『短歌』といった商業誌でもなく、1つは当時創刊されたばかりの別の結社誌であり、もう1つは永井の地元、愛知県内の同人誌だったからである。

 本人による年譜(『歌壇』1991.11)は、この2誌を黙殺する。後年の永井にとっては、とくに言及したいものではなかったらしい。同人誌の方からいえば、関係する情報は没後刊行の『永井陽子全歌集』(2005)所収の年譜に載っている。1974年の項に、

  核ぐるーぷの「核」(名古屋)に寄稿。

とあるのがそれである。永井は、この『核』に1974年から80年まで参加したが、その初掲載作が1974年9月(47号)の「なよたけ拾遺」だった。歌集『なよたけ拾遺』(1978)巻頭の連作「なよたけ拾遺」と、歌も詞書もほぼ同じものである。

 では結社誌の方は? こちらは全歌集の年譜にも情報がない。答えは、1973年12月に岡野弘彦が創刊した『人』である。最近発行された『白鳥』成瀬有追悼特集号(2013.8)の「成瀬有略年譜稿」の1973年12月の項には、『人』創刊に「永井陽子らが参加」と遺漏なく書いてある。この誌名を知って意外に思う向きも多いのではないか。私も、その誌面に永井の名があることに気付いた当初は、同姓同名の別人かと思った。そうでないと分かった後も、何か不思議な感じが消えない。人脈の点で、両者の接点がなかなか見えてこないからである。

 参加の経緯が不明なことはともかく、永井は確かに『人』創刊時のメンバーの1人だった。その創刊号からきっかり1年間、つまり1974年11月号まで、2度の欠詠を挟んで計10回にわたって歌を寄せた。この間、もともと所属していた『短歌人』にも出詠しているから、同時期に二つの結社のメンバーを兼ねていたわけである。そして、『核』掲載よりも2ヶ月早く、『人』1974年7月号に「なよたけ拾遺」というタイトルを持つ8首の歌が載っている。おそらくこれが「なよたけ拾遺」の初出だろう。

 岡野の名も『人』という誌名も、私の知るかぎり、従来の永井陽子関係の論文や評論、エッセイ等には取り上げられていない。それらの名は、ことさらに避けられてきたようですらある。たとえば、『短歌人』2000年8月号の永井陽子追悼特集に鎌倉千和の文章が入っている。鎌倉は『人』創刊メンバーで、その解散後に『短歌人』に入会した人であるから、文中で『人』時代の思い出に触れてもよさそうな気がする。しかし、鎌倉はそれには一言も触れていない。

 同人誌『核』への参加にしても、これまでの永井陽子研究はまだほとんど考察を加えていないようである。永井はなぜ「なよたけ拾遺」の発表の場として『人』と『核』を選んだのか。「なよたけ拾遺」の意義は?

 これらの問いを言い換えれば、こうである。永井はなぜ『人』や『核』に参加したのか。そこでの活動が永井の歌にどのような成果をもたらしたのか——。


(2013.9.17 記)

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