最新の頁   »   短歌一般  »  1940年に名歌集が多い理由は?(5)
RSSフィード iGoogleに追加 MyYahooに追加
 一体、「明年ニナレバ事情急迫」の「事情」とは何を指していたのだろうか。現代の私たちは、1941年といえば12月の真珠湾攻撃と日米開戦を想起するが、茂吉が一年以上前にそれらを予想していたはずはない。

 歌壇内では当該の茂吉日記の直前、1940年11月6日に、大日本歌人協会解散という事件が起こっているが、ここからただちに歌集出版を急ぐべきだという認識につながるものだろうか。

 直後の12月に国の情報収集・宣伝活動を担う情報局が設置され、関係機関の日本出版文化協会も発足。翌年7月には出版用紙配給割当規定が施行され、書籍・雑誌を発行する際に日本出版文化協会に企画届を提出して用紙の配給を受けることになった。

 こうした事柄を茂吉が事前に細かく察知していたということはないにしても、言論統制が一層強化されていく雰囲気は感じ取っていたということだろうか。

 1941年前半の言論統制強化が歌壇にどのように影響したかについては、当時商業誌『日本短歌』の発行人として歌人と密接に交流していた木村捨録の回想記「私の中の昭和短歌史」の同年の項(『林間』1977年8月号)が参考になる。やや長くなるが、該当箇所を引こう。

 短歌雑誌を各府県庁の協議で全国二、三十種に統合整理するという話を聞いたのは五月頃である。それより前に演劇、美術、音楽等々の都内誌(東京府内で発行されていた雑誌の意だろう—引用者註)が統合を命じられていたから、いずれ短歌雑誌も免れえないと自覚していたが、当局の方針が明確にわからず内心不安のまま推移した。それがようやく統合方針の軸みたいなものを掴むことが出来た。そして理念が紙材の節約にあるのではなく、近年の結社歌誌が主宰と近親の名誉欲の如きものに偏在している観念を旧体制として是正し、更に自由主義的色彩誌を絶滅するのが指針である点が明瞭となった。そこで流派や中央地方を問わず、歌人の話はこの問題で持ちきりとなり、統合の話が乱闘寸前に及んだのすら見られたようだ。(略)しかし東京府からは未だに通達がなく二、三の歌人を招致して事情を調査したにとどまった。但し、歌集歌書出版用紙の配給統制はすでに六月から実施されていたから、紙材のすべてが漸く窮屈になって来たし、印刷工場も軍需関係の印刷物を優先させた。例えば発行日にしても毎月一日発行とあるものは一日以前の発行を許さず、店頭の陳列また発送も必ず一日厳守を実行せねばならなかった。



 短歌雑誌の統合は当然『アララギ』にも関係することで、茂吉にとって大問題だった。それは5月以前から予想されていたとのことだから、あるいは茂吉日記のいう「事情」のうちに含まれていたのかもしれない。実際、「私の中の昭和短歌史」には、1941年前半の言論統制強化と歌集の出版件数との関わりを示唆する箇所がある。

 そうした気運が出版の氾濫を促したといっては云い過ぎだが、この年における歌集出版は相当活発であった。歌集でいえば、十年も二十年も自重して来たものが戦争で不可能になったら生涯の痛手と考えて幾分焦慮したのも当然だったろう。



 「幾分焦慮した」のが誰なのかは明記されていないが、根拠のない記述ではあるまい。「事情急迫」の認識は、1941年には茂吉以外の歌人にも共有されていたようだ。


(続く)

関連記事
NEXT Entry
1940年に名歌集が多い理由は?(6)
NEW Topics
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(3)
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(2)
『ねむらない樹』vol.5の訂正記事について(1)
ご挨拶
できんくなるかもしれん考
第一回BR賞並びに石井大成「〈ほんまのこと〉への機構」メモ
山崎聡子「わたしたちが身体を所有すること」メモ
「意志表示せまり声なきこえ」の解釈
『現代短歌』2020年5月号(特集 短歌と差別表現)について(9)
『現代短歌』2020年5月号(特集 短歌と差別表現)について(8)
コメント
Trackback
コメントを書く
 管理者にだけ表示を許可する
ブログ内検索
和爾猫より

和爾猫

Author:和爾猫
-
主に近現代の短歌について調べています。
同じ趣味の方がいらしたらうれしいです。

情報のご教示などいただけたら、
さらにうれしいです!

検索フォーム
最新トラックバック
QRコード
QR

CALENDaR 123456789101112131415161718192021222324252627282930