最新の頁   »   葛原妙子  »  暴王の死に関する異説(3)
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 塚本邦雄『百珠百華』(1982年)は、葛原妙子の「暴王ネロ」の歌をめぐって、
 

 気管を百粒の石榴が塞ぐのも、美しい話ではあるまいか。



と述べる一方で、
 

 石榴の実に中つて死ぬのも、ネロにはふさはしからう。



とも記している。必ずしも「咽に詰まらせて窒息」説だけに固執していたわけではないだろう。太宰治「古典風」に登場するネロの父は、柘榴を食らった後に腹痛に襲われて死んだ。「柘榴を食ひて死にたり」と言っても、その死に方はいろいろと想像できるのである。

 そして、もう一つの読み方。「柘榴を食ひて死にたり」は、一義的には柘榴を食することと死ぬことの前後関係を表わしているだけで、因果関係を表わしているわけではない。前後関係の提示は因果関係を示唆する風ではあるが、そうでない読み方もまた可能だ。

 寺尾登志子『われは燃えむよ:葛原妙子論』(ながらみ書房、2003年)はこのもう一つの読み方、すなわち「柘榴を食ひて」を「暴王ネロ」の死因とは解さない立場、を採っている。
 

 「異説」の中のネロは自害の前に「復活」の果実を食べ、それから死んでいったという読みも成り立つように思われる。/悪辣非道の君主が断末魔に、永遠の命を渇仰して果てて逝ったと夢想すると時、「暴王ネロ」の相貌はにわかに悲劇性を帯びてくる。



 これが唯一の正解とは思わないが、解釈することの楽しみを十分に追体験させてくれる文章にはちがいない。これまで見えなかった風景が、ここに確かに広がっている。
 

 妙子は、史上まれなる暴君としてしか顧みられることのないネロに思いを馳せ、「暴王」なる存在の悲哀を一首に構成したのではないだろうか。だとすれば「美しきかな」には自らが作り上げた悲劇の「暴王」を悼む思いが読み取れよう。



 「窒息」だとか「激烈の腹痛に襲はれ、呻吟転輾」だとかに「美しきかな」の詠嘆は、考えてみれば随分と無神経だ。この点でも、私は寺尾説の方に魅力を感じる。

 太宰の影響があったとしても、葛原の歌は葛原のものだろう。


(2014.10.17 記)

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コメント
65
こうして比較してみると、寺尾さんの読みが一番深みがあるように感じます。歌の読みというのは面白いですね。

僕も漫然と「咽に詰まらせて」という感じで読んでいましたが、ザクロが不死や再生の象徴であることを考えると、寺尾説には十分な論拠があります。

66
いつも拙文を読んでくださって感謝、感謝です。自分には全然見えていなかった読みの可能性を鮮やかに見せてくれる、そういう鑑賞文とか解説文とか、ときどきありますね。そういう文章に出会えると、短歌を読むことのおもしろさを再認識します。

寺尾さんの読み方、おもしろいですよね。寺尾さんの本はちょっと忘れられているようで、残念です。

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