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 吉川宏志インタビューについて、続き。

 歌一首の中に文語調と口語調が混在するのが私は好きではないのだが、今日では有名歌人の作にもそういうものがある。そのことについてたまたま少し考えていたところだったので、吉川さんが
 

 文語と口語が混じるのもね、自分ではそんなに嫌いではないんですよね。



と発言しているところに興味を引かれた。しかし、残念ながら、それに続く会話はうまく噛み合っていない感じだ。
 

荻原 吉川さんの歌では、〈旅なんて死んでからでも行けるなり鯖街道に赤い月出る〉(『海雨』)なんかもよく引かれますよね。
吉川 そうだね。それに、文語だけだとちょっと嘘っぽくなるときにふっと口語が入っちゃうというか、それはわりに自然なことなので、そういうのは大事にしたい。



 「旅なんて」の一首には、

  ・なんて
  ・死んで
  ・でも
  ・行ける
  ・赤い
  ・出る

という口語調の言い回しと

  ・なり

という文語調の助動詞が混在しているわけだが、「なり」は現代の小学生でも理解できる語で、口語調ともよく馴染む。だから、例歌としてこれを挙げるのは、今一つおもしろくない。

 一方、それに対する吉川さんの回答もずれている。この一首の基調は、明らかに口語調。したがって問題は、なぜそこにわざわざ「なり」という文語調を入れなければならないのか、口語調だけではいけないのか、ということだろう。「文語だけだとちょっと嘘っぽくなるときにふっと口語が入っちゃう」という発言は、引用歌の説明にはなっていない。


(2014.9.14 記)

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コメント
61
確かにここは少し噛み合っていないですね。
「旅なんて」の歌については、青磁社の週刊時評(大辻隆弘・吉川宏志『対峙と対話』収録)で議論がありました。

大辻隆弘「ご都合主義的言語観」
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_060904.html
吉川宏志「自由な言語感覚も大切」
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_060911.html
大辻隆弘「行けるなりについて」
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_060918.html

例歌としては、「縺れあうコスモス畑で子を追えりいつまで若い父なのだろう」(吉川宏志『夜光』)などが良いでしょうか。場面や景を文語で詠んで、それに口語の心情を合わせるパターンは、かなり広まっていると思います。

62
ご教示ありがとうございます。いつもながら松村さんの記憶力、すごいですね。たちどころに関係文献が引き出されてきて、頭の中にコンピュータが入っているみたい。

青磁社の週刊時評、早速読んでみました。この議論はかなり噛み合っていて、おもしろいですね。ただ、ここでも、穂村さんや俵さんの歌は引用歌としてあまり効果的でない気がしました。というのは、口語と文語の混在が好きでない私でもそれほど違和感を感じない歌なので。(大辻さんのせいではなくて、もともと角川短歌の特集でそれらの歌を挙げた人がよくなかったわけですが。)

それに比べて「縺れあうコスモス畑で子を追えりいつまで若い父なのだろう」は、なるほど検討に値しますね。この一首は私、違和感を感じます。「場面や景を文語で詠んで、それに口語の心情を合わせる」ということですか。なるほど興味深い。少し考えてみようと思います。

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